2009年4月17日金曜日

目から鱗、とはこのこと。「外国人看護師の行方」より





「外国人看護師の行方」という上野千鶴子さんの記事を読みました(2009年3月23日 信濃毎日新聞 「月曜評論」より)。伊藤るりさんの論文「再生産労働の国際移転で問われる日本のジェンダー・バイアス」(都市問題 第100巻第3号、2009年3月号)を読んだあとであったので、送りこむ側・受け入れ側のジェンダー・バイアスの問題があることを考えていた矢先でした。伊藤さんは、「国籍と性別を問わず、介護労働者の人権が等しく保障されるために」ということで、3点あげ、その最後の「日本国内に包括的な人権保障の実現を図る機関を設置することが重要になる」という提案をしています。

上野さんは、外国人看護師候補は4年間の滞在で3回、介護士は1回の受験チャンスしかなく、その間離職も転職もできず、合格しないと送り返されるという決まりの中で、目から鱗の提案うをしていました。それは、試験問題のすべてにルビをふるというアイデアでした。

海外からの看護師に関しては、石原都知事は、鄭香均の裁判闘争のときに、いくら優秀でも外国人は管理職にさせないと断言していました(「当然の法理」http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html)。海外から看護師が日本で働くことによって、日本人の看護師の賃金が下がるかもしれないとか、同じ賃金を外国人看護師に払うのは不当という議論はありました。しかし私はルビをつけるという発想には至らず、上野さんの提案に、あっと驚いた次第です。

この提案から私の脳裏をよぎったのは、「「慰安婦」問題へのもうひとつの視座を探って」(鄭柚鎮 インパッション167号)という論文でした。これまでの「慰安婦」問題の視点を批判的に捉え、「慰安婦」自身の立場に徹底的に立つことの重要性を指摘してました。運動を志す者はどうしても、運動論とか、民族的な立場とか(日本人、韓国人に拘わらず)を重視してきたきらいがあったように思います。しかし上野さんのアイデアは単純で、彼女たちに最も必要なものは何かということからでてきたものと思います。

鄭香均の友人たちはインドネシアから来た看護師候補に日本語を教える活動をすると聞いたことがあり、私は賛同していました。私の友人はフィリピンでボランティア活動をしています。しかし音訓の二通りの読み方がある漢字は、日本語を学ぶものにとっては限りなくむつかしいはずです。

以上のことは、多くの外国人労働者が日本に多く住むようになるというのは、<新>植民地主義にあっては不可避であり(西川長夫『グローバリゼーションと植民地主義』(人文書籍)と横浜国大での講演録参照。
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_167.htm)、そういう社会にあって、全ての住民が国籍に拘わらず、生活とお互いの「意見」を言い合う場がどのよう保障されるのか、という齋藤純一さんの「民主的な公共性」のテーマに結びつきます(6月6日に斎藤さんの学習会があります。そしてそれは地方自治の仕組みとしてどのように可能なのかということで、5月26日小原隆治さんの学習会で学びます)。

政府にこの信濃毎日の記事が届き、是非とも、ルビをふるという決断をしてもらいたいものです。闘いとはこのように徹底的に当事者の立場に立ち当事者を尊重する視点をもち、「敵」さえ巻き込むような、柔軟なものでありたいですね。みなさん、いかがでしょうか。



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崔 勝久
SK Choi

skchoi777@gmail.com
携帯:090-4067-9352

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