2020年12月28日月曜日

崔勝久さんの本「変化を作ってきた異邦人」(『個からの出発』)を読んでーー韓日反核平和連帯代表 イ スンム

私たちの仲間である、韓日反核平和連帯の韓国代表のイ・スンム博士(経済学専攻)から拙著『個からの出発 ある在日の歩みー地域社会の当事者として』に対する論評がありました。以下、私の翻訳で(何人かの人たちの助言を得て)ご紹介します。何か、丸裸にされた感がありますが、批判と助言を含めた論評として受けとめたいと思います。ありがとうございました。

               崔勝久さんの本「変化を作ってきた異邦人」を読んで            韓日反核平和連帯 イ スンム

私は崔勝久さんが自伝を書いているという話を聞いた時から、この本を韓国で出版するためにどのように支援するかを相談して、実際に出版を実現させるために彼の原稿と校正状態の本を2回読んだ。その前に崔勝久さんと2013年秋の会議で初めて会った後、韓国と日本を行き来する彼といくつかのことを一緒にしてきたことがあり、これまで彼が生きてきた過程を記録したその本はとても興味深く読んだ。

崔勝久氏は、特に2016年10月26日、日韓反核平和連帯が福岡で結成されたときに重要な役割を果たしており、そのとき私が記録を担当したので、彼の発言を記録したことがある。その福島原発事故が起きた後、日本での原発メーカーを相手に数々の原告を集めて裁判を進行していたことについて彼が発言をしたことがある。その発言中に次のような部分が出てくる。

"チェスング:原発メーカーの裁判は、世界初の裁判である。メーカーには責任がないという法律(原子力損害賠償法)が現在ある。これは、日本だけでなく韓国、台湾など世界のすべての国にある。これは原発を売るために作られたものである。世界教会協議会と協議した後、世界39カ国4000人が参加し、裁判を起こした。島弁護士はロックンロールの歌手だった。彼は40歳になって弁護士になった人である。島弁護士は、若者たちが聞き取れるようにやさしい言葉で話をしようにと私に注文した。私は原発体制という複雑な問題と戦っていかなければならずこの話を聞かなかった。 「崔勝久氏は原発批判を介して民族運動をするのではないか、私が弁護を辞めるか、崔勝久氏が手を引くかどちらかの選択をせよ。」という島弁護士の発言で私は事務局長の座を降りると話した。島弁護士は私に原告からから抜けるようにと話した。他にも日立裁判で知られている朴鐘碩氏にも抜けるように要求した。だから私と朴鐘碩氏は本人訴訟団原告として裁判を継続することにした。裁判を提起した原告の中で弁護士がそのような要求をすることは話にならないとして反対意見を持つ40人が集まり本人訴訟団となった。一つの裁判を巡って二つの主張が両立した。島弁護士を朴鐘碩氏が提訴した。弁護士が理由もなく、一部の原告を切り捨てることは、弁護士法違反ということだ。向こう側は私たちを提訴したが、その理由はわからない。」

日本の反核運動内部で分裂が生じたものであり、その分裂の一方の当事者が崔勝久氏だったのだ。崔勝久氏は反核運動をしながら東京のような大都市と福島のような農村地域間の差別の問題、そして核覇権国の核兵器による多数の良民の被害の問題、日本国内での在日韓国人など少数者への差別問題を一緒に提起しようという立場であり、相手の立場は、具体的な争点である福島原発メーカーの責任問題に限定してやっていこうというは立場だったようだ。崔勝久氏の主張に同調する多くの日本の人々が同じ側に立ち、これがきっかけとなって、韓日反核平和連帯が発足することになった。

ところが崔勝久氏は反核平和運動をしながら、ほぼいつも会議の時に発言を多くして、声が大きく、あなたが理解していないことについて最終的な決定が出まで問題提起をしようとしてそれを不快に思う人々がいたと言えるだろう。 この本の一番最後に、崔氏の連れ合いに対するこのような言葉が載っている。「最後に私のようにいつでもどこで物議を醸す人間を理解し受けとめ、支えてくれ、一緒に歩いて来てくれたことに心から感謝をしたい。」 そのようなことを見れば、崔勝久氏自身が生きてきた人生の中で、常に問題を提起することが体質化されていたことを本人自身が知っていたと言えるだろう。 このような崔勝久氏の性格をよく知っている私としてはそのように生きるようになった背景が気になった。

そして、この本を読みながら、多くの部分を理解することになった。彼の両親は、日本植民地時代に父は黄海道新川で、母は大邱で生まれ、日本に移住した方だった。1945年に日本で生まれた崔勝久氏はビジネスをする父の下で朝鮮人であることを除けば、日本の子供たちとあまり異ならない環境で成長した。彼は運動も好きな活動的な学生だった。青年期に彼は国際基督教大学を卒業し、彼が通っていた韓国人キリスト教教会の影響で自分の人生の根である民族ということについて考えていた。成長しながら、自分のアイデンティティについて悩むことになったうえで、宗教を通して同胞青年たちに会うことで自然に朝鮮民族の歴史と血統に対して関心を傾けるようになったものと思われる。そんな影響で、1960年代末に韓国語を知らない状態で韓国に語学研修を来て、一生懸命韓国語を勉強しながら韓神大、香隣教会を通じて咸錫憲先生、安柄茂先生の民衆神学に接し大きな影響を受けたようだ。語学研修期間を延ばして韓国の歴史をもっと勉強しようとしてソウル大歴史学科の大学院に進学した。韓国と日本の間で活動する韓国の民主化運動勢力とも接続している。しかし、彼には韓国の友達や日本に住む意識ある在日同胞の民族主義思想に完全に同調するには解決されない問いがあった。

そんな中、朴鐘碩氏が日立に就職する過程で朝鮮人であることを隠したという理由で採用が取り消されるのを見て、これに対する抗議運動に積極的に参加して会社の謝罪と採用を達成するようになる。これは民族的出身者に対する差別に抵抗した運動でありながら、日本社会の中で生きていく人間が不当に受ける差別に対する抵抗であり、誰でも、人間として自分の社会の中で不当な差別があることを見たときにじっとしていてはならないという、人間としての当然の生きる姿勢として彼の人生の中で確固としたものになる。

彼は東京近くの川崎地域のキリスト教の教会を拠点にした保育園、幼稚園などを通じた地域運動に没頭した。ここでも、キリスト教の教会の保育園で在日同胞の子どもたちを対象に、民族文化や言語、アイデンティティのための教育をする運動が活発に展開されている中で、崔勝久氏は民族運動としてこの問題にアプローチするだけではないという立場から子供たちと親たちからのよく聞こえない声を積極的に代弁することで、在日同胞が主軸である保育園運営委員会から手を引いてほしいという話を聞くことになる。

誰であれ自分自身の民族的ルーツについてよく学び、自分の名前を日本式ではなく、自分が属している民族に基づいて朝鮮式に登録して、その文化を享受しながら生きる権利は保障されるべきだと同意しながらも、日本社会で民族主義的感情を持って、完全な異邦人として生きることができないという悩みを介して、彼は社会の中で差別に反対する人間として生きるという結論に達したものであり、この本は、その過程をよく示している。

本の中で最も多くの部分を占める第3部は多文化共生という海外移住民政策を扱っている。朴鐘碩氏の問題のように、日本国籍ではなく、在日朝鮮人 鄭香均氏が川崎(東京都の誤り―崔)地方公務員として社会福祉分野の昇進試験で国籍条項で脱落させられた事件に対する抗議運動に参加し、日本の憲法と国家公務員法等の国籍による地方参政権差別問題を法律的に扱っている。国籍問題で地方自治体の公務につく権利、選挙権、被選挙権が制約を受ける問題を歴史的に形成された国籍の問題がいまだ解決に至らない朝鮮移住出身者に加わる不当な差別の問題とみて、これを地域の住民の立場で告発しているのだ。これも全く民族主義的な理念とは関係のない、人間としての生活の問題として扱っている。 これは彼が咸錫憲先生のシアル思想と韓国の民衆神学を通して歴史的な加害と差別の構造をくぐってしつこく生活を継続する民衆の生命力に参加したことに、その根を見つけることができるのではないかと考えられる。

この本は、少なくとも個人の成長史という心理学的な次元、歴史と社会の屈曲を生きる民衆史的次元、アジアと世界の平和という大義のために努力する精神的な次元の3つの次元での貴重な人間的資料になると思われる。

最初に、個人の成長史と捉えて見たときに、彼の民族的背景と彼が属した日本社会の多くのコミュニティのメンバーが当然持っている民族的背景は同じでなく、彼が学校で学ばなければならない歴史と体得した社会の文化や習慣は、家族の歴史的伝統とは矛盾して、加害者と被害者の関係での葛藤を誘発するものだった。

このような構造的な条件で成長した個人の自己の全体性(アイデンティティ)の確立は、かなり危険な爆発と逸脱の可能性を抱えていた。このような可能性を十分に内包した環境で、彼は命を持つ人間として生き残るために盲目的な攻撃性を持って生きるか、反社会的な閉鎖集団のメンバーとして生きるより、社会の構成員としての一切の差別に反対する人間の叫びをあげることが自分の使命であり、アイデンティティとするようになる。歴史的に見れば、民族的少数者であり、被害者であるが、多数派である通常の日本人たちと人間対人間として出会い、矛盾が多く不完全な社会構造を一緒に解決していく社会的人間のアイデンティティを介して、彼は、日本社会を間違った方向に行くのを放置しない積極的な参加者である成人に成長したのである。その成長まで、彼の苦悩と学習と経験が、この本の内容の背景に敷かれている。

第二に、歴史と社会の屈曲を突き抜けて生きてきた民衆の歴史的な一面を見ることができる。これは公式の歴史の中で扱われず、歴史小説で扱われる庶民の涙ぐむようなライフサイクルの側面である。崔勝久氏の家族は日本の下層社会で経済的に困難な生活したとは言えず、むしろ日本社会でも平均以上の教育を受けて、英語、韓国語の能力から見ても、社会の意識から見てもインテリ層に属する方である。しかし、彼が所属する同胞社会は19世紀半ば以来の西勢東漸と日本の韓半島侵奪の過程で形成された民衆の身体的、精神的苦痛と悲しみと被害を持つ少数の社会であった。このような背景から、彼の歴史的、社会的意識と差別と不正に対する積極的な解決の動きは大きな栄養素の提供を受けたことになり、彼の挑戦的な性格の形成に大きな影響を及ぼしたことになる。

彼の父親は、特に商業の世界でビジネスマンとして日本社会で生き残るために挑戦的に生きていくしかなかったし、彼も大都市環境で知らず知らず、民族的背景による不利益を受けながら、日本の高度成長期にいくつかのビジネスを介して生計を続けてきた成果が問われる合理的な論理と勢いの面で、日本社会で生き残るために同年代の日本人よりも強靭さを見せてきたものと思われる。

これは歴史的に祖国の視線も度外視されて見落とされたにもかかわらず強靭な生活を続けてきた同胞たちの歴史を一方の面からさらけ出してくれる要素を持っている。ただ自らの見る目だけで闘志をむき出しにして生活を乗り越えて行かなければならなかった在日コミュニティの一面を、彼の人生は示している。

第三に、宗教を通じて同胞社会と接続され、韓国の民主化運動勢力と接続され、就職差別を受けた同胞のための運動に参加し、地域の運動に身を投じて、川崎での多文化共生政策の美名の下で行われる目に見えない差別に抵抗しながら、彼の闘争を通じて、むしろ民族の理念を超え、人間の世界に徐々に出るようにされてきたのを見ることができる。彼は福島原発事故後の日本社会で、原子力発電所に反対する運動の中で最も先頭に立ち民間人と軍人を区別しない米国の残酷な核爆弾投下の責任を問うこと、核爆弾の被害を受けた人々の賠償を受ける権利を見いだすことができるように、日韓の市民が力を集める組織を作って活動してきている。これは穏やかな多数者の民族的、歴史的、家族的背景を持つ人々は誰もそれほど積極的にしたとはいえないほど彼は日本社会、アジアそして人類社会の構成員として後世のための大きな心を持って動いたのだ。そのような力がどこから出てきたのだろうか?宗教の力か?朝鮮人のDNAか?彼国際基督教大学で受けた善良な市民教育のためか?それはないだろう。

それは歴史的に疎外されて歪み混乱した自分の背景についての悩みを人間として生きていくためには、克服するしかなかったし、その克服の道をこのような背景を問わず忘却することから探すことはできるものではなく、より積極的に差別反対の社会的目標に参加する人間になることに昇華する過程で得られたものであったことと関連している。これにより、彼は小市民が持つ自己の生活に埋没された家族利己主義と穏やかな生活の憧れと誘惑とは距離を置く生活を生きて来たのであり、その結果として、彼には、人類共同体の将来のための平和運動を人間らしく生きる当然の道として受け入れられたのだ。これは社会的に体得した精神的な次元と見ることができる。 私たちは、この本を通して、人間をよりよく理解できるようになり、人間の可能性の舞台においてどのような生活が繰り広げられることができるかを、素朴な語り口だが、美しく見せてくれたことに対して崔勝久氏に感謝する。終わり。

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