2020年12月14日月曜日

崔著『個からの出発 ある在日の歩みー地域社会の当事者として』を読んでー北條良至子

故鄭香均が縁で知り合った愛知県の北條良至子さんにお願いして拙著『個からの出発 ある在日の歩みー地域社会の当事者として』(風媒社)を読んでの論考を書いていただきました。拙著の解説をかいてくださった加藤千香子さんや金容福博士とは違う角度からの心のこもった論考を紹介させていただきます。

  崔著『個からの出発 ある在日の歩みー地域社会の当事者として』を読んでー北條良至子

一冊を読み進める間に細切れに短かな読感をfbにも投稿しました。一人でも多くの方に読んでもらいたいという思いでの投稿でしたが、私のようなものが書いてみると、大切な箇所の引用ばかりして、買って読まなくても良いかな?というような愚かな解説になってしまいそうで、著者から全体の感想をまとめてほしいと言われた時、正直、困惑しました。

私は本の最後にある<解説>を受け持たれた大学教授などの肩書きがある者でもなく、しいて言うならば、浄土真宗の一末寺の坊守(住職の連れ合い)というお役目をいただいている程度の者です。それが、今回、稀有なご縁で崔さんのご出版を少々お手伝いさせていただきました。崔さんとは旧友でもなければ、長年の同志でもありません。子育て、地域活動への参加など、ごく普通の主婦としての体験をしながら、お寺という地域の開かれた場をお預かりしている意識から社会や地域の事が少々気になって生きてきたような者の、とても素人っぽい感想も一興かと、全体を通じての感想を書かせていただきます。 この拙い感想をお読みになられた方が、本書を読んでみたいと思ってくだされば、私にはそれが何より嬉しいことです。 🔹🔹🔹🔹🔹

25歳のクリスチャンの若者の自死から始まる冒頭。「歴史の非条理」への抗議から著者が託されたと自覚されたことは、歴史を変革する主体は誰であるのか?その非条理に翻弄され生きる無名の民衆こそ、歴史の主体である。 読み終えて、この想いがこの本の底流にあることをつくづく感じました。 私は、借りた本でなければ、心に止まった箇所を赤線で引っ張る癖があるのですが、この本は、そんな赤線ばかりになりました。

何箇所かに赤線を引いた「持続可能な社会」を「住民が生き延びる地域社会」との著者独特の意訳。そこにも民衆目線の実感があります。 国民国家と植民地主義の問題を生涯の考察課題とした西川長夫教授が、3.11福島原発事故以降、最後の著書の中で「人類が生き延びるための最後のチャンス」(本文258p)との言葉は、この国の社会に生きている誰しもがどこかで感じているように思います。それは国籍も越えて地域社会の住民としての意識なのだという事も、私はあの3.11の数日後の偶々コンサート会場で、原発爆発の知らせを聞いた二世の歌手の悲痛な嘆きを聞いた時に感じた衝撃にも通じるものでした。

私達日本人は、都合の良い時には在日の方々とも友人になりますが、自分達の苦難を共に感じておられる同じ地域社会の同じ一住民であるとは、どこかで思っていないのだ、と、その時感じた自分の意識に気付かされたことでした。 そういう無意識の意識が「多文化共生」という言葉に何の疑問も感じないのだとの鋭い著者の指摘そのものの私が居ました。

「多文化共生」などという言葉は、グローバリズムが世界を席巻し日本でも外国人が急増する中で90年代以降に唱えられるようになった(259p)言葉だと。その言葉の先にあるものへの抗いとして、著者は原発体制については、国籍を越えた原発メーカー訴訟の闘い、新自由主義の世界的な流れへの抗いとして人権優等生川崎の「多文化共生」の限界を指摘しておられます。 それは著者が「日立闘争」「当然の法理」の闘いを最後まで支援される中から培われてきた物だと思います。川崎に移住してからの「日立闘争」の朴鐘硯さんの心境と闘い方の変化という大切な部分については、本書を熟読していただきたいと願います。 その中で、「運動」や自分の立場に固執するあまり、そしてまじめに「活動家」を認じ「運動」に没頭すればする程、かえって大切なことが見えなくなること、を述懐しておられます。(69p) 5人の母親達の問題提起にハッとされた崔さん。子育てという現実を抱えた女性ならこその問題提起を無視するのではなく、そこに自分達の活動や運動の問題を見つけられたようですが、このようにせっかくの女性の視点、問題提起を尊重される男性運動家、活動家というのは日本では稀有なようにも感じます。

さて、引用紹介が後先前後していますが、ここに、以前fbに幾度か投稿した読後感をそのまま日にち順で載せておきます。読み進めながら、まさにその時々に感じたことですから。又、このような読後感を折々に著者に直接メールで送るのではなく、あえてfbで公開で投稿したのは、単なる読後感では済ませることの出来ない、ヘイトがまかり通るこの日本社会でまさに自分達の切迫した課題であると感じているからです。

🔳先日いただいた本のやっとページを開く 一週間前の宴の以前、実はご本は先に届けて下さっていました。 しかしながら、私はまともにそのページを開く事はせずに、鄭香均さんのお写真の前にお供えしておきました。 極私的ささやかなお祝いの宴も済んで、一週間。ようやく、このご本を開く勇気と気持ちの準備が出来た今朝、<はじめに>というタイトルの中に始まった衝撃的な自死の話。 まさにこれから前途洋洋たる大学生の自死。「歴史の非条理」への「ささやかな抗議」の形に、まず深い衝撃を受けない人は、この本を読む資格さえ無いと思いました。

そして奇しくも、崔さんの本日のブログ「オクロス」の小出祐章さんの早稲田大学の文章の中にも、別の在日の老人の自死の事が書かれてありました。 彼らに自死を選ばせたのは、一体誰なのか? 直接首を絞めた訳ではないにせよ、確実にその自殺介助をしている者という自覚は、この社会の日本人私達一人ひとりに、一体あるのだろうか⁉️

私達自身が個への問いかけを自分に抱いて読み進まねば、日本人にとって何の意味も持たない本だと思います。(10月10日fb投稿より)

🔳 この本のお薦めは、まず、導入部の自分史が日本人にもとても親しみやすく書かれているので、日本人にも入り易い事が実に有り難いと思えることです。 私がもし崔さんの奥さんならば、「そこまで書く必要有るの?」抗議の一つも唱えたと思う程、赤裸々に記憶の限りを記しておられるので、第一部、第二部の自分史を読んだ者は、まるで親戚かとても親しい友人のような気持ちを抱くことでしょう。ここまで胸襟を開いて、著者が読者であるあなた、私、と一緒に考えていきたい思いの深さが伝わってきます。 そんな崔さんご夫婦の温かな気持ちを感じて、大切な問題を一緒に考えようという勇気を与えられての展開になっていると感じます。「多文化共生」「当然の法理」という言葉への疑問は、自問、他問だと素直にうなづいて共に考えれる道筋を作って下さっている事が素晴らしいと思えます。 「日本人の若い方に」と仰る著者の思いは、近代史の学びが根本的に抜け落ちている日本人の今後への期待だと感じます。(10月17日fb投稿より)

🔳 「共生」「多文化共生」の裏にある日本人の意識を問うもの さて、私の読書なんぞはお天気次第。この二日間の雨天のうちに、どんどんと読み進めていきたい本が机上に山積み状態。 同人誌は読みやすいかと思いきや、とても大切な問題がそこにはぎっしりでした。 改めて、読みかけの「個からの出発 地域社会の当事者として ある在日の歩み」を読み進めます。

第二部は、非常に個人的な歩みとして、第三者をなるべく傷つけないようにと配慮された個人史をさらりとまとめておられるのは流石だと思いました。その中でも、常に行動を共にしてくれた家族への感謝を述べておられ、運動家にありがちな個人プレーではない歩みこそが、崔勝久さんという方が、大切な事を見据えていける根本だったの改めてだと感じ入った事です。 さて、第三部 地域社会の当事者として。此処こそは、私自身がまさに問われる課題が満載です。大事な箇所として赤ペン引きまくっています。 というのも、私自身も、自分の住んでいる市で数年前、「自治基本条例作成委員会」なるものに参加して、色々と疑問に思った事が、この章の内容とも重複していて、地方行政について何を批判しておられるのか?が、自分自身の体験としても感じてきた事だからです。地方行政が設ける各種委員会や代表者会議、タウンミーティングなどという言葉も、所詮、開かれた行政のイメージ作りの一端でしかない事も、少しでも意識を持って参加した経験からも実感として納得出来る事です。 しかしながら、当時、その作成委員会のメンバーの中でも、外国籍の方々の事についての認識は、ここにある川崎方式以上に掘り下げて考えた記憶など無かったもので、その作成メンバーに、一人でも外国籍の方が入っているべきだったと、今思えば後悔しきりです。

今や全国モデルになっているとも言える「共生」「多文化共生」を謳う「川崎方式」にメスを入れる著者の視点の鋭さ。何故「当然の法理」を前提にしなければならないのか?市長の「外国人は準会員」発言の根底にある、国家を「戦争をする単位」との認識。 著者が、偏狭な民族主義イデオロギーを越えねば見えてこない問題、と指摘される事についてなど、日本人として何の不安も無く守られてきたような自分のボンクラさが身に染みて、この第一章は地域社会の当事者として、まさに自分自身の意識が問われ、この本が日本人こそ読まねばならないとますます痛感します。

紹介したい箇所はいくつもありますが 「在日朝鮮人の差別問題は、差別問題として特化するのではなく、日本の過去の歴史を直視し、それを機軸にして教育のあり方を根底的に問う次元でとりあげられるべきでしょう」(本文157pより)との言葉こそはまさにヘイト、ヘイトスピーチなどを無視し無関係であるかのような私達を問うものだと受け止めます。(11月3日fb投稿より)

🔳 日本人こそ読むべき本を在日の方々が一生懸命学んでおられる怪😱 先日、出版された崔勝久さんの「個からの出発ー地域当事者としてーある在日の歩み」にせよ、安川寿之輔の福沢諭吉論にせよ、一体、どれほどの日本人が真剣に読もうとしているのかを思う時、暗澹たる気持ちになって、もう何も言いたくなくなってくる自分がいます。

安川寿之輔の福沢諭吉論など、もう20年も前に安川先生が地元の市民講座を連続で企画して下さっていました。が、今再度FBで注目されている投稿のほぼは在日コリアンの方々です。 そして、崔さんのご著書のタイトルには、わざわざ「地域社会の当事者として」との副題が付いているのですが、日本の地域社会の当事者であるほぼの人達には、この副題も、一体、どれほどの日本人の心に我が事として引っかかっているのでしょうか❓

私は数年前、ふと目に止まった「自治基本条例作成委員会」募集の言葉に惹かれて、そこにささやかな希望を見つけて応募いたしました。国の政治にも責任はあるけれども、結局はそこに繋がる地方行政が正しく機能しているかどうかについて、自分が市民、住民という当事者として責任を感じた故でした。そこで感じたモヤモヤした疑問。 この度の崔さんのこの本を読み進める過程で、ああ、この事だ!と私の中でのそのモヤモヤをズバリ言い当てて下さっている箇所に出会う度に、この本こそ、今、日本人が読まねばならない❗️と痛感しています。

川崎での取り組みについての中で、179pの数行こそは、まさに日本人の問題そのものです。 「当然の法理」に絡めた川崎での公務員起用という一見開かれた門戸の中に厳然としてあった「当然の法理」について。以下文中より

これは結局、戦後の「平和と民主主義」とは何であったのかを問うことになります。経済復興を目標に「平和と民主主義」を掲げながら植民地支配の清算をしてこなかったことが、外国人への差別が一般市民の中で黙認、当然視されてきた根本的な問題だと言えます。これは戦後の日本の運動が植民地主義の清算の問題を直視することなくアメリカの核の傘の下で、一国平和主義に終わってきたことと関係するでしょう。 これは国のあり方を問う問題ですが、同時に地方自治体の自立の問題でもあります。

これが日本人の重大な課題でなくて、一体誰の課題でしょうか❓

また、川崎での青丘社・ふれあい館の問題に言及しながら、以下161pより

市の依託事業として完全に経済的に従属した状態になっても、市のパートナーとして、相互批判と情報公開の原則に立って、市の抱える問題を指摘・批判することができるのでしょうか。これは青丘社・ふれあい館の問題であると同時に、日本のNPOが抱える問題でもあります。 とのNPO団体、活動のあり方についての鋭い指摘こそは、日本人の問題、課題ではないのでしょうか❓ ここに、私が最近抱えているNPOというものへの限界と疑問が端的に書かれていて、暗雲が一つ晴れた思いです。 何でもかんでもNPO法人、団体にする事が流行っているのですが、そのメリット、デメリットについて、日本人こそはこういう点についてもよく考えるべき課題だと思います。

日本は平和だとノホホンと暮らす同じ日々では、又、何故こんな生き方をしなければいけないかと日本の異常さに悩む日々でも、到底気付かない、この本の中でのこうした鋭い問いかけについて、日本人自身が向き合い考え始め、日本社会が身近な日常から変わり始めるとき、ようやくこの国も本当に変わり始めるのではないか?と感じる次第です。著者が人生の歩みの中で苦悩し感じて来られたこれらの問いかけこそは日本社会にとって、本当に重要なものだと感じます。 民族的であれ宗教的であれ社会奉仕的な活動であれ、どこかの組織に属してその活動に埋没していては中々気が付かない盲点。「個からの出発」をと呼びかけて下さる著者ご夫妻の歩みこそは、それらすべてを包括しつつ越えて日本社会全体が一歩前に前進出来る願いのこもったタイトルだと改めて感じます。

大臣が何人替わろうとも、又、どんな政治家に希望を託そうとも、私達自身の日常で私達自身が変わらねば、国の政治も変わりようがない❗️と感じてきた事のモヤモヤが、スッキリと明確になったこの著書に出会えた事に、心底より深謝。 「個からのの出発」第三章はかくして、遅々として読み進めがたい章です。(11月4日fb投稿より)

🔳 「個からの出発」崔 勝久著を引き続き読む📚 一冊の本を一気に読み切ってしまう時もありますが、今年は奇しくも何冊もの本に共通する課題が見えてくる本が机上に山積み事状態。その中で、無理せず、少しづつ、あちこちを読み進めていく中で「一体、この本達は何を私に伝える為にとて、こうも集合して来たのだろうか?」と立ち止まりつつ考え込んでいます。

さて、「個からの出発」第三部 第二章<人権の実現についてー在日の立場から>の冒頭

「川崎の工業化(近代化)の歴史は今年(2010年)で100年、それは韓国併合と時を同じくします。1958年8月11日には、公害と差別の真っ只中で、日本社会に絶望した川崎の在日から北朝鮮への帰国の嘆願の声が上がりました。しかし、今ここに生きる在日は、「出エジプト」をして祖国に生き延びる場を求めるのではなく、「エジプト」を変革し、国籍を超えすべての「住民が生き延びる」ための「地域の変革」に全力を尽くすべきだと私は思います。(183pより)

この数行を読んで私は涙が止まりませんでした。 あまりにも歪みが酷くなる一方のこの日本社会に愛想を尽かして自国から脱出する日本人も少なくない中、祖国統一は悲願でありながらも、差別と排除の記憶しかない在日同胞へのこんな呼びかけから崔勝久さんの人間愛が伝わってきます。こんな言葉を発する事が出来るのは、崔さんが地域に根ざした生活者の視点を大切にしてこられたからだと思います。もし、私が在日であれば、さまざまの怨みを超えてのこの一言は、とても出てこないと思います。 この章では、在日の側の運動、そして日本の側の活動家、学者達など、双方が見落としてきた、見えなかった?在日の生活者としての実態に言及しておられます。

<マジョリティである日本人社会の問題点ー日本人マジョリティの「病」> の章では、いわゆるマイノリティに対してのマジョリティという観点から日本人の問題であるという事を超えて、このマジョリティ日本社会が抱える病についての深い洞察が展開されています。 私も以前、最初から最後まで線を引きまくった野田正彰「戦争と罪責」からの引用などもあり、本棚から「戦争と罪責」を久しぶりに取り出し、又、これを読み返す作業も始まりそうです。 「野田氏も指摘するように<戦争の「罪責」>が共有化されなかった社会のあり方や、その事実をこどもたちに伝えきれなかった教育のあり方に問題があると言えるのでしょう。私はそのことを、日本の戦後民主主義における住民自治の仕組みという観点から捉え直してみたいと思います。」(192p文中より)

そこで問われる日本の住民自治の実態こそは、日本人誰しもが自分の生活の場で疑問や問題を感じたりしている事ではないでしょうか? 住民自治といえども、4年に一度の選挙で議員「先生」を選ぶことしかないような形式的な代議制民主主義に終始しているような仕組みが、日本人社会が過去の植民地支配に無関心で、戦後責任についても、外国人の人権についても想いが及ばない事と裏腹の関係ではないか?との著者の仮説(192p)に、私も地域住民として実感として大いに賛同するものです。 地域で何か大きな事をやりたければ議員(先生)にお願いして一声かけてもらえばお金が動く、というような事が延々と今でもまかり通る地域。国と地域とが、そんな形でいやらしく癒着しているような地域の現実に大方の私達は無関心、無関係で来たように思います。 で、その事はさておき、差別の問題などを考えている私達の意識の中に、一番身近な地域の問題に向き合う視点がどれほど有ったでしょうか?

実は、私が自分がお預かりするお寺にこだわり続ける理由がまさにそこに在りました。お寺の中の人間関係に疲れて、このお寺からの脱出も考えた時、自分が何がやりたくてここにいるのか?をとことん自問した時が過去にありました。ここを出て、私はどこに行く?と考えた時、やはりどこかの浄土真宗の廃寺になったような所でも探してそこの地域の人達と親鸞について語り合いながら生きていけたらそれも良いかもと思いました。まさにわたしにとっての「出エジプト」を考えた時、何の未練も無かったのですが、私には自分の嘘が見えて来ました。

どこかのお寺でその地域の人達ともし、やれるならば、ここでこの地域の人達とやれなければ、それは親鸞を語っても都合よく逃げているだけ。 そこに気がついた時、このお寺に腹を据えて、改めて自分の地域を見回してみました。それで「自治基本条例作成委員会」への参加なども経験して、この本の中にある地方行政の問題なども実感された事です。また、お寺の周辺にもある色々な問題からも、著者がSustainable Community を「持続する地域社会」というような訳語ではなく「住民が生き延びる地域社会」との意訳は、残念ながら日本の地域社会の現実から深く実感される名意訳だと感じ入ります。因みに「地域で色んな人達が居ていいじゃないか!みんなで何とか楽しく生き延びたい!」との想いを準備の段階から心を込めて境内で企画するライブイベント「ええじゃないか市」と銘打った企画もそんな取り組みの中から生まれてきました。

冒頭の文章に戻って改めて読み直しますと、在日であるとか日本人であるとかの立場も超えて「にんげん」であるという原点から立ち昇る崔さんご夫妻の、この日本社会への愛情を感じずにはおれません。 対話が始まる為の本だと仰っていますが、それはこの本を読んだ人同士の対話ばかりではなく、読んだ人が自分の職場で、また地域住民として地域の隣人達と地域にある問題解決の為の対話を始めるならば、その時こそ、この本を読んだ真価があると感じております。(11月15日fb投稿より)

🔹🔹🔹🔹🔹 以上、取り止めもないものかも知れませんが、この本が世に出ることをほんの少しでもお手伝いさせていただいた責任も感じて、素人目線を大事に読後感想をまとめさせていただきました。最後まで読んでいただき、感謝です。

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