原爆被害者支援と反核平和運動を提案
李 承 茂(韓日反核平和連帶)
1. 序言
20世紀になるまで, 国家は市民社会と多少乖離した存在として市場経済主導勢力の牽制 を受けたり、伝統社会の権威を喪失して民主勢力の挑戦を受ける脆 弱な位置にあった。しかし、帝国主義と植民地、世界的な規模の戦 争を経て, 20世紀の国家はすべての自然人である人民を国民に転換させ、そ のような条件で国家の中で生存を許す神的な存在になった。
このような過程を経て成立した国家イデオロギーは、国家が国民の 一部を犠牲にして全体国家の利益を図ることができるということを 暗黙的に内包しているものと見られる。 これは、戦争や平常時の良民虐殺,核兵器と開発と使用、原子力発 電所の建設と運営が市場経済と民主主義という現代社会の理念とは 関係なく国家によって推進され、社会の進路を他律的に規定しなが ら、イデオロギー的に国家の行為が民主主義とは関係なく、神聖不 可侵の位置で疑問に付されない状態の持続を特徴とする。
一般市民や知識人の合理的判断の領域から外れた複雑な行政・工学 システムが、このような国家エリート集団に対する神秘主義に温床 を与えたと言える。この過程で、多くの大衆はイデオロギー的な幻 想に陥り、国家行為の犯罪的な性格を見かねて虚構的な受恵者意識 を持つようになり、実質的な加害者、犠牲者を周辺化させ, 社会の前面から押し出す差別と情緒的な分断を発達させてきたのだ 。
この論文では核兵器と核発展という国家ないし国際集団の行為によ る受恵者と被害者、犠牲者の立場を見て、受恵者という潜在意識の 虚構性を表わし、被害者たちの連帯行動の可能性を模索する。
2 歴史の教訓
すべての核兵器の製作と使用で加害者と受恵者、加害者と犠牲者を 分け合うことができる。 受恵者は核兵器の製作と使用で利益を得る人々の集団だ。 加害者と受恵者は利益共同体につながっている。 被害者は直接核兵器によって死亡したり、身体的に損傷を受けた人 々も含め、経済的、社会・文化的被害を受ける広範な人々の集団を 指す。犠牲者はもちろん,直接的な身体的な被害を被ったり, 命を失った人々を指す。
それなら,1945年8月の広島、長崎原爆投下について考えてみ ると、加害者と犠牲者は明確だ。 加害者は、米国のトルーマン大統領を中心にした行政府、その中で も軍部だ。 犠牲者は当時、
広島と長崎に住んでいて、命を失ったり傷害にあったりする。
「害者と犠牲者」いう言葉は、戦争ではなかなか使わない言葉だ。 しかし、敵軍とは言えない民間人が多数の死亡を予測しながらも、 故意にそのような攻撃手段を選択したのなら、これは戦争犯罪に該 当し、当然刑事処罰の対象にならなければならない。
原爆投下で利得を得た人は誰なのか。
1) 韓国人の虚構的受恵者意識
韓国の人々は、これまで広島, 長崎の原爆投下によって日本帝国主義の植民地支配から解放された という核兵器による受恵者意識を潜在的に持っていた。 このため、広島、長崎地域で核兵器に犠牲になった韓国人被爆者た ちは無念な被害を受けたにもかかわらず、韓国社会で感情的な孤立 を感じ、苦しい生活を余儀なくされた。 核兵器による受恵者意識を持った集団と犠牲者集団が共感し疎通で きなかったのだ。
歴史を立て直し正確な歴史認識に到達できれば、韓国社会は広島、 長崎の原爆投下をどう考えるだろうか。 当時、連合国の一員だったソ連は、日本の北部を占領する計画を持 っており、
日本軍部は、米国式自由市場経済よりもソ連式統制体制が日本人の 感情に近いと見て、ソ連と秘密裏に接触して天皇制を維持するとい う条件で、ソ連に降伏しようとしていた。
米国はソ連が日本を占領する場合、太平洋地域で米国がソ連と影響 力をめぐって争い、勢力圏を分点するしかないという危機意識を感 じ、ソ連が日本を侵攻して占領する前に核兵器を投下するという極 端な方法で戦争を仕上げ、日本の降伏を取り付けることにしたのだ 。 その後,日本は,福島の原子力発電所事故が起こるまでに, トルーマン·ドクトリンが出るようになった米国戦略の意図どおり ,66年間,米国の保護の下で安全で統一した領土を持って, 先進資本主義国家に発展した。 そう見ると、米国と日本の資本勢 力の利害が一致したわけだ。
そのおかげでソ連は日本に侵攻できず、豆満江を渡って日本の植民 地だった韓半島を占領しに来ることになる。
潘炳律 韓国外国語大学歴史学教授
原爆は元々ドイツに使用することにしたのだ。 ヒットラーが自殺して降伏し、使えなくなったポツダム宣言で、ト
[質問]
第2次世界大戦後,敗戦国の日本がなぜ分割されないのか、なぜ韓
[答え]
米国は日本は絶対譲歩しないと考えた。 韓国は共同信託統治ができると思ったのだ。
ルーズベルトは帝国主義勢力ではあるが国際主義的な面がある。
興味深いことは、日本の軍部指導者の大半が、個人主義者に対する
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歴史に「もし」ということはあり得ないが、もし米国が日本に原爆 を投下させなかったら、ソ連は日本を侵攻したであろうし、韓半島 はどうなっただろうか。 少なくとも,米ソ両大覇権間の対立の結 果である戦争と永久分断の道に進まなかった可能性が高い。そうだ ったら、たとえ内戦が起こったかもしれないが、韓国戦争のような おびただしい戦争にはならなかっただろう。
このような歴史的事実から見て、韓国人は原爆投下で利益を得られ なかったと考えるべきだ。むしろ南北分断になり、3年間悲惨な戦 争を経験しなければならなかった。 そのため、これまで74年間分断状態にある。 これは日本が受けた原爆投下の災いに劣らぬ恐ろしい災いだ。 200万人以上の人々が犠牲となり、分断既得権勢力の暴力的な統 治の歴史が相当期間にわたって続き、未だにその傷から抜け出せず にいる。
韓国社会で原爆投下をめぐり、受恵者の意識を持つ多くの人や犠牲 者、被害者になった人々の間には克服しがたい壁があったのだ。
しかし、その受恵者意識は、虚構的に作られた捏造された歴史に基 づいている。 原爆投下の真の受恵者は、日本の資本と韓国の反民主的な分断既得 権勢力、そして米国の軍事、金融覇権集団だ。
韓国の被爆者と同じく、大半の韓国人は分断と独裁の被害を被った ため、米国の原爆投下行為の被害者たちだ。 その被害は簡単にぬぐえない傷で、いまだに韓国社会を押さえつけ る荷物になっている。
2) 日本人は?
日本社会は2011年3月11日前まで豊かで安全な島国として羨 ましい国に発展していた。 確実な米国の版図の下で、市場経済の発展の恩恵を受けたのだ。 原爆投下で被害を受けた数十万人のほか、日本人の大半はそのおか げで幸せに暮らしてきたのだ。 しかし、福島の津波による原発爆発で日本は一夜にして幸せを失っ た。
日本社会は、これまで事実上統一して幸せな社会ではなかったこと が、福島の原発爆発で明らかになったのだ。 原発で恩恵を受ける地域と原発で被害を受ける地域的な差別が、原 発爆発後に明確に表われた。 日本社会の80%以上の大多数は,脱原発に賛成するが、約20% は原発の維持を望んでいる。 これらは日本産業資本主義の中枢的位置にある人々だ。 その他の多くの日本産業の消費者は, 放射能流出で健康に悪影響を受けるので被害者になったのだ。
結局、韓国や日本で権力と金を握った少数の人々は、米国の核兵器 投下を自分たちのイデオロギー的正当性と富の蓄積の契機としてき た。 核発電所の建設はその延長線上にある。 大多数の韓国人や日本人は、これまで「核兵器+核発電=幸せ」イ デオロギーにとらわれてきたのである。
しかし、日本では核発電が「数の犠牲で多数が幸せになる手段」は なく少数の幸せのために多数の不幸をもたらす手段」いう認識が拡 大している。 韓国では核兵器の使用が「数の犠牲者がいるが、多数が幸せになっ た手段」いう認識がまだ多くの頭の中に潜んでいる。 しかし、歴史的事実はその反対を教えてくれる。 「数が得をし, 多数が苦痛を経験した出発点」ったのだ。
核発展についても同じことが言える。 日本人は福島事故が起きた後、これについて韓国の人々より先に知 るようになった。
2. 原爆被害者支援と反核平和運動
「数の人々が犠牲になっても、多数が幸せでいい」いうのは、功利 主義哲学の延長線上にある論理であり、功利主義は19世紀の進歩 的な思想で、資本主義に受け入れられた核心論理だ。 しかし、こ の論理は少数の利益のために、多数を苦痛の中に落とし入れる行為 を包装する嘘の論理として使われてきた。 核兵器と核エネルギーの出発点からこれまでの歴史がこれを暴露す る。「くら多数のためにも, いかなる人も自分の意思に反して故意に犠牲になってはならない」 いう確固たる社会倫理がなければ、結局、少数が多数を欺き、多数 を苦痛の中に陥ることが繰り返されることになる。
私たちは、まず、核兵器と核発電所が同一であることを確認しなけ ればならない。 どの国で大砲や小銃を兵器システムで開発して配置するということ は、大砲玉と弾丸を持続的に量産する施設を確保しておき、非常時 にその施設を民需用から軍事用に切り替える計画を備えていること を意味する。 核兵器も同じだ。 いくつかの核兵器の卵を倉庫に保管しているのは何の対策にもなら ず、核兵器の原料であるプルトニウムを連続して供給する工場が建 設されなければならない。 核発電所は偽装された核兵器の原料工場だと言える。 米国での核兵器製造は核兵器の原料は米国の同盟国に製造されたプ ルトニウム製造工場から提供される。それがまさに原子力発電所と 言える。
私たちがする原爆被害者支援と核兵器、核発電所を反対する反核平 和運動は、体制(= 核兵器体制を維持するためのプルトニウム原料供給体制)に反対し 、これを粉砕するための闘争だ。 最も重要なことは、核体制のイデオロギーが持つ虚構性を暴露する ことだ。 それは「数を犠牲にして多数が幸せを享受できれば大丈夫」いう変 形した形態の功利主義が、結局はすべてを破滅の道に導くことを確 認することだ。 それは、日本軍部が敗戦する前に多くの人々を死に追い込んだ論理 だと言え、核を開発した米国の軍産複合体の論理もさほど違わない 。
原爆被害者支援は、いかなる大義のために自分の意思に関係なく犠 牲にしてはならず、それは不法行為であるだけでなく、犯罪行為と いうことを社会全体で受け入れさせ、二度とそのようなことが繰り 返されない社会を作るための目的での運動だ。 被害者が実質的な支援を受けられるように効果的な支援体制を構築 するとともに、加害者がその加害行為の結果を認め, 重い費用負担を与えることで、彼らの行為を後悔し、同じことを繰 り返さないように十分な羞恥と経済的打撃を受けると意味がある。 それが問題を平和的に解決する道である。加害者側に特に負担を与 えず、原爆被害者を效果的に支援するという考えは、核兵器使用行 為を正当化するのに役立つだけだ。
核発電所反対運動も,新たな倫理的基準によって、経済成長の論理 が持つ虚構性を暴露する運動だ。 新しい倫理的基準は、「私が望まないことを他人にしてはいけない 」いう伝統的なシールバーのruleから大きく外れるものではな い。 このような倫理的基準に従わない場合、これは不道徳なことに止ま らず、結局、少数の利益のために多くの人々を苦痛の中に陥る結果 がもたらされるということを、歴史的・科学的に確認できる。
それは核兵器の使用と原子力発電所の建設と関連して韓国と日本が 伝わってきた歴史から証明される。 カギになるのは、核兵器と原子力発電所問題で虚構的な受恵者の意 識を脱ぎ捨て、牲者と連帯し、私たち皆が被害者であることを悟る ことだ。
① いわゆる"核の傘"の拒否
「核の傘」いう言葉自体が虚構的だ。 傘は雨に濡れないようにしてくれる良い手段だ。 しかし、同盟国が提供する核の傘は、そのような利益を提供しない 。 むしろ核兵器の使用と関連した施設を領土内に収容しながら、他国 の攻撃対象になる危険をもたらす。 韓国と日本は、
米国のいわゆる「核の傘」の下にあるという理由で、核兵器禁止条 約に参加できずにいる。 いわゆる「核の傘」のため、韓国と日本は米国に莫大な金を支出し ている。 自主的な外交戦略も展開できずにいる。 その結果は、莫大な経済的浪費と政治的従属、民主的な社会経済の 発達の地長だ。 朝鮮は独自の判断によって軍事的な手段と外交的な手段を効果的に 組み合わせて、
最小の費用で国の安全と継続性を維持している。
無理に書かれていたいわゆる「核の傘」で恩恵を受けるという考え は、完全な虚構であることを暴露しなければならない。 朝鮮も、効果的な防衛手段として核兵器を開発したというが、
使用の可能性を誇示しない核兵器は使い道がなく、使用の可能性は 、必ず罪のない人々を犠牲にする可能性を内包する。 しかし核兵器は、民主主義と道徳性に基づいた社会主義や共産主義 理念には合わず、資本主義やファシズムの属性とよく合致する。 朝鮮は、社会主義の原理に合わせて核兵器に反対する平和理念と外 交戦略を含む様々な手段を通じて、より効果的に安保を守ることが できるだろう。
② 核エネルギーの拒否
核エネルギーを拒否しなければならない理由はあまりにも多い。 核エネルギーは、核発電施設が建設された地域の住民だけに被害を 与え他の地域には安価な電気を供給するのではなく、
半径数百キロ以内の人たちに放射能で汚染された空気や水、食べ物 を摂取させる危険を常に内包するエネルギーだというのが事実だ。 それだけでなく、事故が起きていない普段も、近隣地域住民と発電 所従事者に放射能露出を起こし、被害者を量産している。 今の施設レベルでは、
人の命がエネルギー生産に日常的な原料として投入される発電所が 原子力発電所と言える。 犠牲者はこれに当然同意しない。 そのような事実を知るなら、エネルギーの消費者たちもこれに同意 してはならない。 これは、それ自体が犯罪行為になるだけでなく、これをそのまま容 認する場合,時間が経つにつれ、その社会自体が災いを迎えること になるからだ。
3. 結論
同じ社会を生きる人々は、それぞれ孤立して生きていくのではない 。 人口集団はほぼ一身と変わらない.。そのうち何人かが、どの地域 が犠牲になっても、全体社会のために良いことならしなければなら ないということは、歴史的にも論理的にも誤りであることが明らか になった。 事実上、社会は歴史的に大きな授業料を払いながら、これをよく経 験した。 それでも上層部のエリート集団は、考えをあまり変えない。
韓国社会には、核兵器と核発電所に対する誤った盲信にとらわれた 人々のイデオロギーが、
いまだに通じている。 原爆被害者たちが受ける無関心と疎外感がこれを裏付ける。 原爆被害者支援というのは、決して社会福祉の問題も脆弱階層への 支援の問題でもない。 それは加害者に責任追及をすることであり、その犯罪行為の決定と 執行過程を明かし、二度とこのようなことが繰り返されないよう、 善悪の真実を明確にするものだ。 このために韓国と日本の市民社会が手を取り合い、歴史的経験と情 報を共有しなければならない。
それは第1次大戦後,韓国の3.1運動とその後に続く反帝国主義 、反ファシズム闘争がまだ成し遂げられていない目標を達成するも のであるが、これはどんな目的のためにも人を手段として利用し犠 牲にしてはならないという価値を実現するものではないか。
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