FBでIssei Takechiさんが多文化共生の問題とは何かということで歴史認識の欠如であることをご指摘されています。それに対して私は基本的に賛同しながら、私の経験から、多文化共生は外国人の文化には言及し関心を示しても人権を保障しているのかという観点から、国民国家の限界・問題点を突く問題であるという点を記した内容を投稿しました。それに対して、Takechisaはご丁寧に「現在の多文化共生が満州統治と「五族協和」にさかのぼるという点は共感」するという点と「国民国家の限界は、私の関心事項」でもあるとのご意見をあげられました。ありがとうございます。これからのtakeichiさんと対話を深め、問題の本質を議論していきたいと願います。読者のご参加をお願いします。
Issei Takechi
1月17日 22:49 · Saitama Prefecture埼玉県 さいたま市 ·
「多文化共生」という分野があって、今や大学にもそのようなことを教えるクラスがあるけれど、そもそも行政用語で、主に地方自治体が掲げる、外国人と共存しようと言う政策分野のことである。もっとも、「外国にルーツを持つ人たち」などと表現されるのが普通で、「外国人」という言葉は使わない場合が多い。その歴史的ルーツや定義については、関連の書物など当たっていただくとしても、「多文化共生」に決定的に欠けているのが歴史認識の問題である。地域社会の現場に歴史認識の問題を持ち込もうとすると、まとまるものもまとまらんということは現実問題としてあるので、私もいちい顔をあわせるたびに、個人にそういうことは問わない場合が多いし、商売人は政治や歴史認識の問題には近寄りたがらないのが常だが、行政機関は税金でご飯を食べているわけだから、戦争責任や植民地支配における日本の責任を原則的に踏まえて、そのあたりの認識をしっかり持っておかなくてはならないはずだ。
地域社会のことだから、経済や文化の交流をやっていけば、そのうち何とかなるよと言う意見もあるが、残念ながら必ずしもそうではない。今のような反動的極右政権が出来て、マスコミもさっぱりとなると、官僚機構の末端たる日本の行政機関は上につきたがるから、「慰安婦」などの件で、自治体が勝手に交流をやめてしまったりする。韓国政府は全く関係していないのに、「『合意』に反する」とか言って、サンフランシスコとの姉妹都市関係を解消したりする市長が出てくるのはその例だ。他にも、姉妹都市に「少女像」が建って、交流を中止したり延期したりする自治体があるが、相手のほうは交流の続行を望んでいる場合が多い。国レベルの話だとか言ってみたところで、都市間や民間の交流にも結局のところ影響してしまうのである。日本の地方自治体の首長がドイツの加害責任のことを語ったとしても、それで交流を取りやめたりする都市がドイツにあるとは思えない。まあ、日本では、国も市民も反省していないから、そんなことになるのだと言ってしまえばそれまでだが。朝鮮学校への補助金が打ち切られるなどのことも、これに関連した問題だ。日本の自治体の「多文化共生」からは、特別永住外国人が抜け落ちている場合が多い。
Seungkoo Choi 「多文化共生」に決定的に欠けているのが歴史認識の問題であるというご指摘に賛成します。同時に、そもそも「多文化共生」
とは何なのか、についてもその本質を見極める必要があります。私見を投稿させていただきます。
現在「多文化共生」のメッカとなっている川崎で、私たちは50年前に在日川崎教会を中心に日立の就職差別と闘う「日立闘争」をはじめ、並行して保育園を中心とした地域活動をはじめました。そのときにはまだ「多文化共生」という言葉はなく、「共に生きる」とかそれを縮めた「共生」という言葉を使っていました。70年台はじめのことです。そして地域の子供を集めた学園のようなものをはじめるなかで、地域の在日の父母を集めた「日立勝利集会」の場で、同じ地域に住み、同じく税金を払っているのに法律によって児童手当や年金が日本人に限られ自分たちはもらえないというのは差別ではないのかという問題提起が父母の中からでてきました。そこから川崎市長との交渉がはじまり、法律では日本人だけが対象になっているが川崎市の外国人にも児童手当を支給するということが実現されました。国籍条項の撤廃です。その動きが全国にひろがったのです。
法律より人権こそが優先されなければならないということを学んだからこそ、私たちは3・11フクシマ事故において、原発事故の責任はすべて原子力事業者にあり、原発メーカには一切責任はないとする原子力損害賠償法にも拘らず、東芝と日立、GEの責任を問う原発メーカー訴訟を提起することができました。40ケ国、4000人の原告を集めた裁判の原点はまさに川崎での小さな集会にあったと私たちは考えています。しかし川崎での民族差別と闘う砦づくりをめざした「共に生きる」運動は、行政と一緒になって子供文化センターの運営を委託される中で、行政と運動体が一緒になって「多文化共生」を謳うようになっていきました。
私たちは70年台後半から、「多文化共生」の問題点を指摘し、それが戦前の満州における「五族協和」と本質をともにするのではないかと考え始めました。すなわちそれは国家が統治のために外国人を受けいれるスローガンであって、そこでは文化を強調しても決して外国人の人権が尊重しれたり、その地域の構成員としての権利・義務を保障するということではなかったからです。
そのもっとも象徴的なものが「当然の法理」です。日本の独立前に作られた台湾人・朝鮮人公務員を排除するための政府見解です。そのためにそれ以降、外国人は地方公務員にはなれませんでした。その壁を破り最初に門戸開放を実現したのが川崎です。しかし川崎の運動は、その門戸の開放を制度化するために、課長職以上の管理職には外国人は就けない、地域の住民に命令をするような職務には就かせないという「川崎方式」を川崎市、市職労、市民運動体が一緒になって作りました。差別の制度化・構造化です。それが全国のすべての地方自治体のモデルになりました。この「川崎方式」と「多文化共生」が一つになって全国で、まさに日本政府の肝いりで展開されたのです。
「多文化共生」の問題は歴史認識の問題でありながら、さらに外国人もまた日本社会の構成員であり、構成員としての権利は保障されているのかという、国民国家の限界・問題点を突く問題でもあるのです。長くなりました、私の上記の意見は、「多文化共生と原発体制」『戦後史再考』(平凡社)、及び『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』(新曜社)を参考にしていただければさいわいです。合わせて私自身のオクロスというブログもお読みいただければと願います。http://oklos-che.blogspot.jp/
Issei Takechi 返信が遅くなりました。ご主張、ブログなどを拝見し、およそのところは理解をしております。上記の考察は的を得ていると思います。特に、現在の多文化共生が満州統治と「五族協和」にさかのぼるという点は共感します。それは、大東亜共栄圏の思想とも無関係ではないと思われます。戦前の日本は、今と同じく、極めて多文化主義的でしたから。「国家主義に立脚する国際主義」という言葉を使った人もいました。『日本における多文化共生とは何か』はかなり前に読んでおりますが、「当然の法理」の問題に関連して、理解を新たにしたいと考えていて、再読いたします。その他の書物につきましても、なるべく早く読んでおきたいと思います。国民国家の限界は、私の関心事項でもありますので。
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