45年前に日立製作所から国籍を理由に解雇され、日立に対する抗議運動が日本全国に広がり、NYやソウルにおいて日立の不買運動がおこり、横浜地裁において全面的な勝利を獲得し、国籍における就職差別を禁じる判例になった「日立闘争」の当該である朴鐘碩さんが、原発メーカー訴訟に関わるようになったこれまでの過程を述べた陳述書が東京地裁に証拠として提出されました。
原発は差別の上で成り立っていると自らの経験から主張する、朴鐘碩氏の「日立闘争」から原発メーカー訴訟に至るまでの一貫した戦いの姿勢は感動的です。国籍・民族を超えて、差別の現実に取り組み、開かれた社会の実現に向かう氏の氏の姿勢に心からの連帯を表します。
崔 勝久
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「原発メ-カ訴訟」の原告(選定者)である私は、2015年10月19日、東京地方裁判所民事24部に陳述書を提出しました。
戊第14号証
2015年(ワ)第2146号 原発メーカー損害賠償請求事件
原告 朴 鐘碩
被告 株式会社日立製作所 ほか
2015年(ワ)第5824号 原発メーカー損害賠償請求事件
原告 朴 鐘碩
被告 株式会社日立製作所 ほか
陳 述 書
2015年10月14日
東京地方裁判所民事第24部合議D係 御中
本人訴訟原告 日立製作所勤務 朴鐘碩(パク・チョンソク) 印
1.陳述書提出にあたって
2.背景(生い立ち)
3.日立就職差別裁判
4.日立本社糾弾闘争と日立製品不買運動
5.企業社会と沈黙するエンジニア
6.原発事業と日立の収益
7.東京人権啓発企業連絡会
8.私は、何故、原発メ-カ-訴訟を起こしたか
9.原発事故による精神的損害
10.最後に
1.陳述書提出あたって
原告の朴鐘碩(パク・チョンソク)と崔勝久(チェ・スング)は、世界で初めて原発メーカーの責任を問う訴訟を提起し、全世界39ヶ国から約4千人の原告を集めた、原発メーカー訴訟の会の現・前事務局長です。
しかし、原発メーカー訴訟の弁護団は、自分たちの主導に従わないという理由で原告との委任契約を切るという、これまでの集団訴訟において例のない代理人辞任を通告してきたために、私たちは引き続き原告として原発メーカー訴訟を続けることを決意し、本人訴訟の道を歩むことにしました。
私たちは、民訴法に基づく選定当事者制度を活用し、内外の原告から「選定者」の立場になった人たち、及び原告でないが原発メーカーの責任を問うべく「選定者」になった人たちから「代理人」として選ばれた7名の「選定当事者」とともに、原発メーカー訴訟の会・本人訴訟団(以下、「本人訴訟団」とする)を結成し裁判闘争を進めます。
私たち本人訴訟団は、原発メーカーの責任を問うという弁護団の書いた訴状の基本的な趣旨には同意しその問題意識を共有するものの、弁護団は、訴状に基づいて原子力損害賠償法(以下、「原賠法」とする)は原子力事業者の「責任集中の原則」を謳うことで原発メーカーを免責しており、そこに原発事故を誘発した根本原因があると主張し、原賠法の違憲性や、違憲でない場合においても原賠法の文面の新たな解釈の提案をするといった法律論を展開しています。
私たちは、本来の目的である原発メーカーの責任を法廷の場で明らかにし、その責任を問うことを最優先事項とし、私たちの主張する「精神的損害」は原賠法に記された、「放射線の作用若しくは毒性的作用・・・により生じた損害」と定義された「原子力損害」(原賠法第2条2項)には当てはまらないと判断しました。
ここに原発メ-カ訴訟の原告である朴鐘碩の陳述書を提出します。
私は、被告である日立製作所から国籍を理由に、1970年採用を取り消され横浜地方裁判所に提訴し、74年完全勝訴しました。
2.背景(生い立ち)
私は、1951年愛知県西尾市で9番目の末っ子として、貧困家庭で生まれました。日本の公教育を受け、韓国語も話せない、韓日関係の歴史はもちろん、朝鮮名の読み方さえ知らない、日本人化した在日朝鮮人のひとりでした。私の兄、姉は、鉄屑業、タクシ-運転手、水商売などで生計を立てました。当時、日本企業の朝鮮人に対する「就職差別」は日常茶飯事でした。
「朝鮮人は、なぜ企業に就職できないのか」と高校生の時に悩みましたが、「ひょっとしたら実力さえあれば合格するかも知れない」と、私はかすかな希望を抱いていました。
卒業後、出生から使用していた日本名の新井鐘司で日立製作所の中途採用試験を受け合格しました(1970年9月)が、「韓国人である」と明かすと採用を取り消されました。「崖から落とされた」私は、「納得できない。諦めるわけにはいかない」と日立を提訴する決断をしました。この決断は、「自分は一体何者か。どう生きればいいか」を問い、日本人化した私の価値観を自ら否定し、人間としてあるがままに生きることを覚悟したようなものでした。
3.日立就職差別裁判
採用を取り消された後、横浜駅西口で入管闘争のチラシを配布していた慶応大学の学生に出会い、「日立から採用を取り消された」事情を話すと彼らは弁護士を探しました。引き受けた弁護士は、「労働事件の新判例をつくる」という意気込みでした。日立製作所を訴えたのは、私が19歳の時でした(1970年12月8日)。事件は、「われら就職差別を背負って ボクは新井か朴か」と『朝日新聞』(1971年1月12日)で報道されました。
日本人・韓国人の青年たちが中心となって裁判を支援する「朴君を囲む会」がつくられました。日本人化した私は、民族差別による朝鮮人の実態を展開できなかった最初の訴状を訂正することになりました。
最初の弁護士は、「日本人として自らの生き方が問われる」ことに反発し、辞退しましたが、隣の事務所にいた石塚久弁護士が引き受けてくれました。弁護士になったばかりの、当時20代の秋田瑞枝氏、仙谷由人氏(元官房長官)が加わり、東京高裁判事を辞職された中平健吉氏には、弁護団長になっていただきました。
民族組織は、「この裁判は在日朝鮮人の日本人化を促進する」と批判しました。当時「民族」が重要視され、在日朝鮮人青年個々人の生き方に関わる問題の差別を打破し、日本社会で生活する権利を獲得しようという意識はなかった時代でした。
同(日本人)化した私は、自分が一体何者かわからず、暗い閉塞された状況から何とか抜け出したい気持ちでした。既存の民族の枠、あり方では自らを捉えきれず、悩んでいました。同じように生き方に悩む韓国人青年、日本人・韓国人の両親を持つ「混血」の青年、学生運動が陰り始めた20歳前後の日本人青年たちがこの事件に関心を示し、自らの生き方を問いながら共闘したのです。
4.日立本社糾弾闘争と日立製品不買運動
当時、裁判支援組織「朴君を囲む会」の呼びかけ人のひとりであった在日大韓基督教川崎教会の牧師は、WCC・世界教会協議会のPCR(Programme to Combat Racism)の責任者でした。PCRは、この裁判を黒人の人権・差別問題など世界の少数派の闘いの一環として受け止め支援しました。
70年代の韓国は、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の軍事独裁政権に対して、学生たちが民主化を求めて立ち上がった時期でした。同じ本人訴訟となった原告崔勝久は、当時ソウル大学に留学し、韓国の学生たちに日立の就職差別を訴えました。学生たちはそれを受けて、「日本国内での韓国人同胞に対する差別待遇を即時中止せよ」と「反日救国闘争宣言」を発表し、これを『毎日新聞』(1974年1月5日)が報道しました。
74年に、韓国では民青学連事件が起こり学生たちは拘束されましたが、学生の宣言に共鳴して韓国キリスト教長老会女信徒会のオモニ(母親)たちは、日立製品の不買運動を決議しました。WCCも日立製品不買を決議し、アメリカでは公民権運動のリ-ダであったキング牧師の思想を引き継いだ牧師たちが、日立アメリカに抗議をしました。
こうした民族・国境を越えた日立の民族(就職)差別への抗議運動が展開される中、73年12月には、東京・丸の内にあった日立本社で経営陣に対して民族差別の告発と糾弾をする直接交渉が始まり、連日にわたり夜遅くまで続きました。
日立の差別を完璧に暴露したのは、74年4月8日、4回目の直接交渉の席で出されたマル秘文書です。日立の採用責任者は、裁判が始まって間もない71年1月、共産党、民青等の思想的偏向者、熱心な創価学会員、精神・肉体異常者は雇わない、外国人も積極的に雇わないことを決めていました。74年5月15日、衆議院法務委員会で公明党議員がマル秘文書及び朴鐘碩への就職差別を追及(第72国会、衆院法務委議録第28号)し、この差別文書は公開され国会で問題になりました。
日立経営陣への糾弾闘争は、韓国の政治状況に関わることにこそ存在意義があると主張していた民団(在日本大韓民国民団)、在日韓国教会の青年たちも日立闘争に対する姿勢がしだいに変わり、日立本社糾弾闘争に参加するようになりました。
そして1974年5月17日、ついに「世界の日立」は屈服し、判決を待たずに「朴君を囲む会」と日立製作所との間で「日立が朴君を民族差別し続けてきたものに他ならないことを認め、日立は責任をとる」、「日立製作所は、今後、このような民族差別を二度とくりかえさぬよう、責任ある、具体的な措置をとることを確約します」という二つの確認書が取り交わされました(朴君を囲む会編『民族差別―日立就職差別糾弾』亜紀書房、1974年、118-119頁)。
確認書締結から1ヶ月後の6月19日、横浜地裁は原告勝利の判決を下しました。判決文は、「被告〔日立〕は、合理的な解雇理由がないのにかかわらず、原告が在日朝鮮人であることを理由にこれを解雇したのであるから、前述のとおり、労働基準法3条、民法90条に反する不法行為となることは明らかである」「在日朝鮮人に対する就職差別、これに伴う経済的貧困、在日朝鮮人の生活苦を原因とする日本人の蔑視感覚は、在日朝鮮人の多数の者から真面目に生活する希望を奪い去り、時には、人格の破壊まで導いている現状にあって、在日朝鮮人が人間性を回復するためには、朝鮮人の名前をもち、朝鮮人らしく振舞い、朝鮮の歴史を尊び、朝鮮民族としての誇りをもって生きて行くほかにみちがないことを悟った旨その心境を表明している」と、生き方にまで言及しています(同、279頁)。
この判決は、日立の控訴断念により確定し、韓国のマスコミは、民族としての主体性のない私の「告発精神に学ぶ」(「社説」『東亜日報』1974年6月10日)と報道しました。
4年近い裁判闘争で民族差別の不当性を訴え、日立経営陣を糾弾し、国境を越えた運動により支援を受けた裁判で完全勝訴し、私は22歳で日立に入社しました。在日朝鮮人への差別・偏見に立ち向かい、常識を覆した日立闘争は「これで終わった」と思いました。
5.企業社会と沈黙するエンジニア
1970年には国籍を理由に採用を取消し、2011年には致命的な原発事故を起こした日立製作所はどのような企業なのでしょうか。
日立は、日立鉱山を発端にして、朝鮮半島が日本の植民地となった1910年に創業しています。2014年決算報告では、年間売上高は10兆円弱です。33,500人の所員と947の関連会社を含めた総従業員数は約32万人で、家族を含めると日本の人口の約1%に相当します。
私は、3年半の裁判闘争を経て、全く異なる世界であるコンピュ-タソフトウエア部門に配属され、通信プログラム開発に従事し、仕事を覚えるのに必死でした。当時IBMが世界のコンピュ-タ市場をほぼ独占し、技術の先端をリ-ドしていました。それに追随する日立の経営方針に従った数人のエリ-トエンジニアは、1981年IBM産業スパイ事件を起こし、最終的には和解したものの職場はその後の始末と対策に追われ、余計な業務が増えて大変な騒ぎとなりました。
システム開発プロジェクト設計者は、工程を死守するため(建前上制限はあるものの)長時間残業をし、徹夜することが日常化していました。コンピュ-タシステムは、ハ-ドウエアに適合した言語で作成された、多くのプログラムが組み込まれて動作しました。事前に繰り返し厳しい検査・性能評価を経て製品を出荷します。それでも予期しないプログラムの論理不良で証券・金融のオンライン業務が停止すれば、経済・社会への影響は計り知れません。その責任は、当然メ-カ-にあります。
同様に被告3社が製造した原子炉の設計に欠陥があれば当然メ-カ-の責任が問われ、事故が起これば、最終的には現場の技術者が対応するしかないという、致命的な欠陥を抱えています。
私は、プログラム開発と保守を経験しましたが、製品の不良原因には、設計した当事者でなければわからないという、同様な致命的な欠陥があります。「原因が判明」しても事故現象と繋がるのか徹底的に検証しなければならず、事故を起こす環境条件設定に苦労したことが何度もありました。
不良箇所を作ったと疑われる(関連会社を含めた)設計担当者は原因が判明するまで帰宅は許されず、事故調査のため徹夜作業が何日も続くこともあります。開発と調査で心身共に冒され出社拒否したり、職場で倒れたり、入院するエンジニアもいました。不良の原因が判明すれば顧客に報告しますが、職場ではその後も不良箇所を作成したプロセス、技術および動機的原因を徹底的に議論し追求します。不良箇所を作った担当者およびその上司は、他の業務を一切停止し、(事業所)幹部に報告するドキュメント作成に追われます。不良製品に対する日立(企業)の責任と品質確保は徹底しています。
日立の労働者は、資本の論理に従い、上司から課せられたノルマを遂行することが求められています。しかし、福島原発事故後もそれは変わらず、会社・組合からは原発メ-カ-として把握しておくべき事故の状況、収束工事に関する説明がないまま、日々の仕事に追われ処理しています。
日立就職差別裁判が起こったとき、日立労組幹部はじめ多くの労働者は見て見ぬふりをしましたが、この反応は多くの犠牲者を出した原発事故に対する沈黙と通じています。原発メ-カの労働者は、原発製造・輸出といった会社の事業に疑問を感じても、業務に追われ、将来を考えて沈黙します。
一方で、トップダウンで全て決定する日立労組は、所員を強制的に加入させて組合費を給与から天引きし、幹部の裁量で自由に遣います。組合員は組合費の使途を情報公開請求できることになっていますので、私は何度も請求しましたが、組合(幹部)はそれを拒否しました。
組合への批判や苦情を公にすれば組合・会社から睨まれ、昇進の妨げになる恐れがあります。また組合では役員選挙を実施しますが、その実態は、職場と候補者名だけが掲示され、組合活動に関心もない、所信表明もしない、ものを言わない、会社の意向に沿った組合員が立候補する、というよりも、させられるものとなっています。立候補する組合員に所信を尋ねると、殆ど沈黙するか、「組合から頼まれたから立候補した。特にやりたいことはない。」と素直な返事をします。こうした組合員自らが属する組織への従順さと沈黙は、利潤と効率を求める環境をさらに強化します。日立の経営と組合を一例として述べましたが、被告であるGE、東芝も同じような状況であると思います。
企業社会では、「言論の自由」が保障されていないため、不祥事・談合・偽装のような犯罪があっても、経営者を公に批判し、まして地球全体を汚染する原子炉の製造を中止し、事故の責任を求める組合幹部・エンジニアは皆無です。上司のやり方に愚痴をこぼすことはあっても、経営トップの哲学を批判できる開かれた風土、風通しの良い企業文化は存在しないと思います。逆に言えば企業・組合は、労働者の沈黙によって支えられていると言えます。上から決められた予算・納期で新製品を開発しなければならないため、現場のエンジニアにとって精神的負担となり、不良品を作り出す要因にもなります。不良製品の発生とエンジニアに沈黙を強いる経営体質は深く関係していると思われます。
6.原発事業と日立の収益
日立は、東芝、三菱と並ぶ原発メ-カ-であり、日本にある原発54基の内20基以上を造っています。1952年、サンフランシスコ講和条約の発効によって原子力開発研究が解禁され、政財界は「平和利用」を口実に国策として原発(核)を推進してきました。10年後の1961年のクリスマス、日立は川崎・王禅寺にあるシステム開発研究所で「原子の灯」をつけました。『日立原子力情報』(http://www.hitachi-hgne.co.jp/nuclear/index.html)によれば、その後、敦賀、島根、浜岡、福島第一原発が相次いで営業を開始し、原子力発電が本格稼働しました。
海外でも日立は原発関連施設に深く関わり、2014年4月に大規模な反原発抗議運動が起きた台湾には「日の丸原発」(第4原発)を建設しています。2013年11月に抗議行動が起きた韓国・古里原発1~4号機には発電機を納入しました。また2007年には、アメリカのGE社との原子力事業統合として日本とアメリカにニュ-クリア・エナジ-社を設立しています。こうした原発の建設が進むなか、1978年10月に運転を開始し30年以上経過した福島第1原発4号機は、2011年3月15日、原子炉建屋が爆発し、使用済み燃料プ-ルが外部環境に露出しました。
『2014年度3月期連結決算の概要』(日立製作所、2014年5月12日)によれば、2013年度(2014年5月公表)の日立の連結決算は、総売上9兆6,162億円。うち電力(含む原発)システムの売上は7,773億円で全体の8%、営業利益は167億円で利益率は全体の3%となっています。これには火力発電などの収益も含まれ、事故の影響によって原発事業だけの収益はさらに低くなります。企業は通常、採算の取れない収益の低い事業から撤退し、利益率の高い事業に投資しますが、日立は、原発事業売上を2012年の1,600億円から2020年までには2,800億円に伸ばす計画です。事故の影響で国内需要は見込めませんが、イギリス、リトアニアなどからの海外受注を見込んでいるようです。
しかし、電力システムの売上は、「火力発電システム事業の国際競争力を強化するため、同事業を三菱重工業(株)との合弁会社である三菱日立パワ-システムズ(株)に統合したことや、原子力発電システムの作業量が減少したことなど」によって、2012年度より14%、営業利益は44%ダウンしています。が、一方で2012年、日立は、イギリスの原子力発電事業会社であるホライズン社を買収しています。東電・政府に福島原発事故の責任追求、反原発の声が高まっている中で、なぜ収益の少ない原発企業を買収し、続いて利益率の高い鉄道受注が決まったのでしょうか。日立は、ある程度の損失を覚悟して850億円で原発企業を買収し、国家事業であるインフラ整備に絡む高収益率を維持できる鉄道事業の受注を得ました。
日立の原発輸出に対してリトアニアは国民投票で2012年62%が反対の意思表示をしましたが、日立は原発輸出を断念することなく、「日立製作所は30日、2014年にリトアニア政府とビサギナス原子力発電所建設計画の事業会社を設立する」と発表しました。(日刊工業新聞2014年7月31日http://www.nikkan.co.jp/ news/ nkx0320140731bjbk.html)
日立の経営陣は、投票の結果をどのように捉えたのでしょうか。地元住民の声に応えなかった理由を明らかにしていただきたいと思います。
東電や政府が、原発事故後の対応に追われる中、原発メ-カ-である日立、東芝、三菱は、福島原発事故により国内需要は見込めないため、輸出で事業を拡大しようとしています。つまり日立によるイギリス原発会社の買収は、国策に沿った世界の原発体制の維持・強化にあったと思います。
かつて、原賠法でメ-カ-の事故が免責され、製造物責任(PL)法が問われなかったために「安全神話」の下では、原子炉の品質、安全性、予防保守に対する設計者の士気が低下し、検査工程が杜撰にならなかったのか、という疑問が残ります。
また、自然を破壊し、住民の土地・財産を奪い、家族の絆を引き裂き、20万人以上と言われる被曝避難者を出したことに対して、被告3社の答弁書に経営陣から謝罪の言葉は一切ありません。また、私が勤務する日立においては、事故の原因追求、企業としての社会的責任は社内で問われていません。
7.東京人権啓発企業連絡会
政府、電力業界は、3・11事故後も多くの市民・住民を騙し、原発の「安全」を謳い、川内原発を再稼働しました。経団連は、原発に依存し利益と生産力を上げ、原発メ-カ-は原子炉を輸出しようとしています。
企業社会で戦争責任が問われなかったのは、このような経済を優先する傲慢な経営体質があります。住民を騙す国策を無条件、無批判に受け入れ、それに沿った経済、利益、効率、生産を優先し、その背後で(国内)植民地で犠牲となった人々への配慮が欠けています。
日立就職差別裁判の勝利判決から5年後(1979年)、東京に本社を置く経団連に加盟する多くの企業は、「差別図書である『部落地名総監』の購入、採用にあたっての差別選考等の反省を契機として、それぞれの企業が差別体質の払拭に取り組む」東京人権啓発企業連絡会(通称・人企連)を発足しました。124社(2015年7月)が加盟しています。(http://www.jinkennet.com/jinkiren/jinkiren.html)
致命的な原発事故で日本だけでなく世界の人々を核による恐怖に導き、人権を侵害した東京電力、原発メ-カ-である日立・東芝・三菱関連企業も加盟しています。
また、人企連の役員は、世界人権宣言中央実行委員会、部落解放基本法制定要求国民運動実行委員会、反差別国際運動(IMADR)日本委員会、部落解放研究所、東日本部落解放研究所等の会長、副会長、理事などに就任し、また賛助会員、法人会員になって、「あらゆる差別の撤廃にむけて取り組」んでいます。
日立のCMは、「Inspire the Next」「 技術の日立は、地球のために」と環境保護・人権を謳っていますが、事故による汚染水を垂れ流し、世界中に放射能を拡散しています。
2013年に亡くなった、東大工学部出身、金井努元日立製作所会長は、「海軍兵学校江田島で最後の生徒として過ごし」、「現在の日本を築き上げてきたという自負」を持ち、日本原電取締役を経験しています。「講演記録平成9年1月26日於防衛大学校 経営理念・原子力」には、次のように書かれています。
「戦争中にいた江田島は広島のすぐ南にあり、原子爆弾が投下されたときもきのこ雲がよく見えました。それから2週間ほどして、郷里の京都に帰るときに広島の街を通り、惨状を目の当たりにしたわけです。私は入社してから原子力の開発に従事したわけですが、そういう経験が、私の将来を決めることになった」「1953年、私が入社した頃ですが、原子力の民間利用、平和利用が解禁され、その2年後に原子力の開発が始まりました。原子力が日本の脆弱なエネルギ-問題を解決してくれるのではないか、エネルギ-問題も将来は明るくなったと、当時私どもは喜んだものです。その後、日立の研究所で原子力の開発に携わり、工場勤務も経験しました。」「日本を代表する企業として、やはり国が必要としていれば我々はやらなければならない」と防衛大学校生を前に講演しています。
この「日本を代表する企業として、やはり国が必要としていれば我々はやらなければならない」という国策を無批判に受け入れる言葉が、海外の地元住民に犠牲を強いる原発輸出に繋がっています。
また、中西宏明元社長は、2013年6月の株主総会で次のように述べています。
「原発に取り組んでいることを恥ずべきことだとは、片時も思ったことはない」「原発事業は恥ずべきことではなく、むしろ誇ること」「イギリス、リトアニア、ベトナム、インドなどで進めていきたい。
GEとはワンチームだ」と原発事故の収束の目途もないまま、平気で原発の輸出を強調しています。(http://www.greenpeace.org/japan/ja/news/blog/staff/blog/45685/)
こうした原発事業を推進する被告・日立の経営者の発言は、「自国がアジア太平洋各地で15年にわたって犯したさまざまな戦争犯罪も米国の戦争犯罪も全く眼中になく、「科学技術」という狭い技術的要因にのみ敗戦の理由を求め、「原子力平和利用」を含む科学技術振興に向けての下地を作ることに熱意を燃やした」(「原爆投下は米国の戦争犯罪および日本の戦争責任の隠蔽に使われた-広島の8つの平和団体からのオバマ大統領への手紙」)と言えます。
これは原発メ-カ-である経営者、国民国家を支える国旗を会社の正門に常時掲揚する経団連・経営陣の本音ですが、犠牲となった福島の住民はじめ世界の人々への謝罪の言葉は一切ありませんでした。
日立の経営陣は、日本の植民地支配の歴史から生まれた民族(就職)差別を謝罪したにも関わらず、広島の惨状を見た金井元会長は、被曝し犠牲となった人たち、強制連行された朝鮮人(朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』未来社1971年)が被曝した事実、原爆の恐怖、戦争責任ついて全く触れず、沈黙したのです。
こうした経営者トップの発言から、「日立の経営陣は、日立闘争から何を学んだのか」と疑問を感じるのは当然です。日立は真摯に差別をなくし、開かれた企業を目指したのでしょうか。戦後の植民地主義である「原発体制」は、開沼博の「フクシマ論 原子力ムラはなぜ生まれたのか」(青土社2011年)に書かれているように原子炉建設、被曝しながら(廃炉)作業に関わる末端現場労働者、解決の糸口がない使用済核燃料処理、海洋への大量の汚染水垂れ流し、核物質であるウラン発掘など地元住民に犠牲を強要し、差別と抑圧を基盤にしています。
現場の廃炉作業の道筋は、不透明ですが、原発メ-カ-はどのような役割を果たしているのでしょうか。
8.私は、何故、原発メ-カ-訴訟を起こしたか
戦前の植民地支配から生みだされた差別・偏見によって在日朝鮮人の子どもたちの教育・就職に悩むオモニ(母親)、アボジ(父親)が集まった、川崎南部地域で開かれた日立就職差別闘争勝利集会(1974年)で「国籍を理由に児童手当がもらえない、市営住宅に入居できないのはおかしい。差別ではないか」とアボジから問われた時、差別と闘ってきたにもかかわらず、私はそれに答えることができませんでした。
この問いによって逆に、「そうか、そのような差別をする法律自体がおかしい」と気付きました。そこから法律によって差別を正当化する国籍条項を撤廃させる運動を始め、行政交渉によって段階的に自治体ごとに国籍条項が撤廃され、その後、年金加入、銀行融資を受けることも可能になりました。こうした単純な疑問が、原発メ-カ-の事故責任を問う「原発メ-カ-訴訟」(2013年から原告募集)につながったと思います。
脱原発を訴える弁護士、活動家は、なぜ原発メ-カ-の責任に言及しなかったのでしょうか。多くの人たちは、原発に反対しながら福島第一原発のメ-カ-を知りませんでした。東電に全ての責任があるかのように喧伝され、メ-カ-の責任は問えないという諦めがあったのではないかと思います。
私は、地元住民に甚大な被害をもたらした水俣病を起こしたチッソ企業の経営者、経営者に責任追及できず沈黙し、経営者を擁護した組合幹部、労働者のことを思いました。同じ歴史を繰り返してはいけないと自分に言い聞かせました。
数百名が集まった職場の予算説明会で私は、原発メ-カの労働者のひとりとして、「日立製作所にとって原発事故は、緊急な課題である。原発事故から3年経過したが、原発事故にどのように対応しているか。土地を奪い、家族の絆を引き裂いた被曝避難者のことを考えないのか。遺伝子を破壊する放射能、子どもたちへの影響を考えて日立の関係者も避難していると思われる。事故を起こして原因も究明せず、なぜ、原発を輸出するのか。その神経がわからない。日立の経営陣は、一体何を考えているのか。新聞報道されたが、原発メ-カ-である日立は、世界中の人々から責任を問われている。企業としての道義的・社会的責任をどのように考えているか」と問いました。
職場の部長は、「企業としての道義的・社会的責任を問われましたが、パクさんの質問にどう回答していいのか、わかりません。これだけしか答えられません」という返事でした(2014年4月22日)。
2014年5月21日、福井地裁は、「福島原発事故においては、15万人もの住民が避難生活を余儀なくされ、この避難の過程で少なくとも入院患者等60名がその命を失っている。家族の離散という状況や劣悪な避難生活の中でこの人数を遥かに超える人が命を縮めたことは難くない」、「原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている」と、経済よりも人命と豊かな自然保護を最優先し、大飯の原子炉再稼働中止を認める判決を下しました。
原発メ-カ-(である日立)の経営陣、労働者は、この判決文を読み、自分たちが製造している原発(核)の恐怖と事故による社会的責任を理解する必要があります。さらに原子炉を造らない、原発事業から撤退する英断が求められています。
原発メ-カ-被告3社が原発を再稼動することに協力し、新たな原発の建設をすること、及び原発を輸出することは民法90条の「公序良俗」に反します。被告3社はその違法行為によって原告の「不安」「恐怖」を引き起こした責任があり、原告の精神的損害に対する賠償責任があります。
40年以上前の日立の国籍を理由にした就職差別は、韓日の歴史から生まれたものであり、同様に民法90条の「公序良俗に反する不法行為となることは明らかである」と横浜地方裁判所裁判官は、原告勝訴の判決を言い渡しました。
判決から40年以上経過しましたが、現在も被告・日立で働く私は、原発事故を起こした日立製作所を相手に、改めて企業としての倫理、理性、社会的責任(CSR)を問うことになりました。
9.原発事故による精神的損害
「おかしいと思ったことを、声にした。根回しを無視し、職場の代議員に立候補する。10年ほど前からは、支部の委員長選にも毎回出た。もちろん惨敗ばかりだ。(中略)そして定年の日。片付けがあるからと、わざと作業着で出勤した。定時のチャイムが鳴ると、部署を超え、大勢の人がフロアに集まってきた。朴さんは驚いた。花束贈呈。多くの目が柔らかに笑っている。長い長い拍手が続いた」(「窓 論説委員室から ある会社員の定年」『朝日新聞』2011年12月28日)。私は、3・11原発事故から8か月後の11月末、日立製作所を定年退職しました。現在は、日立製作所で嘱託として働きながら「原発メ-カ-訴訟の会」事務局長として関わっています。
在職中、「朴は職場で何をしているか。会社に埋没して管理職となり、安定した生活をしている。闘争までして差別の壁を破ったのだから、大人しく黙って働いた方がいい。会社・組合を批判したら、企業は再び朝鮮人を採用しなくなる」などの声を聞いていました。
「私は仕事だけしていればいいのか。何のために裁判までして日立に入ったのか」と悩み、入社して、5年後(1979年)、胃潰瘍で1か月入院しました。労働者は、言いたいことがあるのに、何故、職場集会で沈黙するのか、発言しないのか、労働者の問題と民族差別の関係を考えるようになりました。開かれた企業・組合組織を求め、人間らしく生きるためには、「国籍、民族など関係なくおかしいことはおかしいと言う勇気と決断が大切だ」と開き直り、発言するようになりました。
被告である日立製作所の職場集会は、管理職の前で開かれ「民主主義」を装うためのポ-ズでしかありません。組合(幹部)は、組合員が会社・組合に批判・不満があっても上司のいる前で発言しない(できない)ことを承知しています。組合員自ら「これは選挙ではない」と話す選挙投票日、投票率を上げるために、事前に選ばれた委員が組合員名簿をチェックし、棄権する(しそうな)組合員に上司がいる前で「投票しろ!」と意図的に周囲に聞こえるように恫喝する姿を目にしました。「私は投票しません」と勇気を表明する組合員は皆無です。組合員は、生活を考え、孤立を恐れて従うしかありません。これが連合を組織する、資本のグロ-バル化を推進する日立、東芝をはじめとする企業内組合の実態です。
日立が民族差別を起こした背景には、こうした労働者がものを言う「表現の自由」を束縛する圧力があり、この抑圧から解放されなければならないと思い、会社と組合から厳しく監視される中、私は役員選挙に立候補しました(2000~2010年)。ほとんどの組合員が無視する中で、当初30%近く得票しましたが、1度も当選しませんでした。私に投票する組合員は「パクさん頑張れ!」と声を発することすらできません。「雨の中、傘をさして(投票を)訴える姿を見て感動しました」と密かに話す同僚もいました。「技術が進めば差別はなくなる。長いものに巻かれるしかない」という諦めの声と沈黙が漂う雰囲気でした。私はこのように労働者にものを言わせないことが、差別・排外に繋がる就職差別・不当解雇事件を起こし、経営者に原発事故の責任を追及できず、沈黙に繋がっていると思います。
組合費の使途、選挙方法、組合幹部報酬、職場の不満・疑問はいくらでもありますが、誰もそのことについて発言しません。ものを言わ(せ)ない組合員を悪用した組合(幹部)の横暴に我慢ならず、労使幹部の春闘交渉現場に参加し組合の体質を批判した(2006年3月8日)こともあります。(私の)言動を封じるためなのか、組合(会社)は職場集会をなくしました。これまで気楽に話していた上司、同僚、後輩たちの表情も変わり、私を敬遠するようになりました。
開かれた企業組織を求めて会社と組合を批判してきた私は、2011年の原発事故後、原発メ-カ-で働く労働者のひとりとして、沈黙していいのか悩み、内部から声を発することの意味、重要性を考え、日立製作所の会長・社長に抗議文・要望書を提出し、原発メ-カ-としての責任、被曝避難者への謝罪、原発事業からの撤退、輸出中止、廃炉技術・自然エネルギ-開発への予算化を求めました。また、東京駅前にある日立本社に向かって、海外からの参加者と共にリトアニアへの原発輸出に抗議しました(2012年12月18日)。原発事故から3年目となった2014年3月11日、日立資本の城下町である日立市中心街で、青年たちと共に「反原発、輸出反対!」「日立の労働者は、目を覚ませ!」「日立の経営陣は被曝避難者・子どもたちに謝罪しろ!」と訴えました。
何故、日立の労働者は、事故の反省も謝罪もなく、平気で原発を輸出しようとする経営陣に抗議の声を発することができないのでしょうか。
原発輸出は、相手国住民を差別・抑圧し、生命を奪い、生態系を破壊します。戦前日本がアジアを侵略したように再び日本が加害者になることが懸念されます。他者及び外国籍住民を抑圧することは、ものが言えない社会へと繋がります。街頭での排外主義を煽る朝鮮人へのヘイトスピ-チデモ、愛国主義を謳う人たちが増えています。
もはや核を保有する米国の植民地となっている日本では、安倍政権が集団的自衛権の合憲を閣議で決め、安保関連法を強行採決し、再び戦争への道を整備・正当化し、市民・住民はますますものが言えなくなっています。ものが言えないのは、企業社会だけでなく自治体・教育現場・マスコミなどどこの世界も同じような状況だと思います。
企業社会は、経営者と組合幹部が「労使一体」という「協働(共生)」を謳い、民主主義・人間性を育てない(育たない)ように労働者を巧みに管理・支配しています。
戦前日本の企業は、労働力不足を強制連行した朝鮮人、捕虜で連れてこられた中国人で補い、植民地であった朝鮮において莫大な利益を得ました。戦後、日本政府は、日本国籍を剥奪し、官民一体で外国籍となった朝鮮人の、人間としての権利を全て排除しました。こうした人間としての権利を剥奪した歴史に加担した企業、それに抗議しなかった労働組合の戦争責任を不問にしたことは、被告・日立、東芝の企業内組合が加盟する連合のような労働運動が体制化したことにも繋がったと思います。自らの戦争責任が問われなかったのは、経済を優先し傲慢な経営体質に労働者が黙って従う絶対的価値観を持たされているからではないでしょうか。
元立命館大学西川長夫教授が語っていたように、「資本のグロ-バル化は、植民地と先住民を隠蔽し、共生は差別と搾取の構造を基礎にした国民国家統合の戦略」であり、「新植民地主義」であることを示しています。国籍を理由に採用を取り消し、原発事故の謝罪もせず、労働者に沈黙を強いて原発を輸出する日立グル-プをはじめとする原発メ-カ-の経営方針は、国民国家を支え弱者に犠牲を強いる植民地主義であると私は改めて気付きました。
被告である日立は、国籍を理由に18歳の朝鮮人青年の採用を取消しましたが、「民族差別をした」ことを認めました。民族差別は、日本による植民地支配から生まれ、戦後、朝鮮半島は、核を保有する覇権国によって分断されています。日立の経営陣は、日立就職差別闘争から何を学んだのでしょうか。日立グル-プ企業として差別・抑圧の犠牲となっている人たちに対する理解を深めたはずです。
同時に国籍・民族を超えて労働者にとって差別のない、人間らしく働きやすい、開かれた職場をつくることではなかったのでしょうか。既述したように私は、定年まで勤め、その後も嘱託として働き、経営陣、組合幹部に開かれた企業・組織を求めてきました。
しかし、3・11原発事故を経て、判決から40年以上が経過した現在、「あらゆる差別の撤廃にむけて取り組む」はずだった日立の経営体質、日立労組の沈黙は変わっていません。
事故が起きても起きなくても、原発がある沿岸に住む地域住民や下請、孫請の現業労働者は、常に人命の危険にさらされています。国策に加担する原発メ-カ-は、利潤・効率の追求するあまり、安全対策がおろそかになります。つまり住民と現業労働者に犠牲を押しつけ、人間性を否定する差別構造が生まれます。
原発の歴史を鑑みれば、核兵器と原発は表裏一体のものであり、「原子力の平和利用」そのものが当初から超大国の核による世界支配を補完するものであり、人間・民族・国家間を差別する構造の上に成り立ち、犠牲を強いるきわめて非人間的なもので、被告3社が強調するような、原賠法が「被害者の保護」と「原子力産業の健全な育成」を「調和させ、ともに実現する」という主張は、人類と自然に対する冒涜です。これは日立就職差別裁判の判決文に書かれているように民法90条の「公序良俗に反する」明らかな違法行為と言わざるを得ません。
被告3社は、その違法行為によって原告の「不安」「恐怖」を引き起こし、原告の精神的損害に対する賠償責任があります。
人格を破壊する(民族)差別を認めた日立が、社会に貢献し、開かれた会社になることを、私は期待しました。しかし、原発事故の犠牲となった福島住民はじめ世界の人たちに核(兵器)の恐怖と不安を与えたことに、日立、東芝、GEの経営陣から謝罪の言葉が一切なかったこと、原子力事業に携わる労働者、組合からも「申し訳ない」の言葉すら全く聞くことができなかったこと、さらに事故原因を究明せず原発事業を推進し、原子炉を輸出しようとする経営者の発言から、このままでは、原発を造り輸出し続けることで世界の人々にさらに「不安」と「恐怖」を増幅し、人間らしく生きる基本的人権を犯すことになると思いました。この事実に、私は精神的損害を受けました。
原発メ-カ-の経営陣、その下で働く労働者は、企業としての社会的・道徳的責任、人間として良心の呵責を感じないのでしょうか。
10.最後に
原発は、存在そのものが人類に「不安」と「恐怖」を植え付けています。原発メ-カ・日立で働くひとりの労働者として、人類と自然を破滅に導き、核兵器に繋がる原発の開発・製造事業から完全撤退することを被告3社の経営者に強く求めます。
また、私は、致命的な3・11原発事故の原因、その責任を徹底的に追求し、2度とこの世界で原発事故を起きないことを願い、反原発を訴える世界の人々と連帯して、求めていきます。これはこの世で生きる私たちの責務であり、私たちの子ども、孫、次世代への責任でもあります。(原告となった)世界の人々は、固唾を飲んで裁判所の判断に注目しています。
原発・核兵器を保有する覇権国が、朝鮮半島がそうであるように、国民国家を分断し、多くの棄民、難民を生み出し、弱者に犠牲を強いる歴史に終止符を打ちたいと思います。
歴史は作られるものではなく自分で作るもの、人権は与えられるものではなく自分で獲得するものである、ということを私は日立就職差別裁判闘争から学びました。
繰り返しますが、戦争責任が問われないまま、経済と効率を優先させて、人類、自然と共存できない、人間性を否定する戦後の「植民地主義」である原発体制を国際連帯で打破し、原発・核兵器の廃絶を求め、私は、開かれた企業、社会・組織を求めていきます。
また、私自身が人間らしく生きるために、どのような状況に置かれてもおかしいことはおかしいと言い続けていきます。
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