2013年8月4日日曜日

It's a show timeー「終戦のエンペラー」を観て


昨日、妻と「終戦のエンペラー」を観ました。この映画のプロデューサーの奈良陽子のことをパンフの中でこのように紹介しています。「1945年の日本とアメリカに対する思いだけでなく、2011年3月11日東日本大震災発生以降、数々の試練を乗り越えてきた現在の日本に対する思いも込められている。奈良橋は言う。「戦後の惨状から立ち直った日本を描いたこの映画を、つらい経験をした日本のひとたちに捧げたかったの。作品が彼らに希望や勇気やエネルギーを起こることを願っている」。

この映画はハリウッドで作られ、世界市場でのビジネスを前提にしています。フィクションと歴史的事実(とその歪曲した解釈を含め)を二人のシナリオライターに書かせてひっつけ、あたかもこのような話が本当であるかのような作品を観た人が3・11以降の日本の惨状のなかで生きる勇気を得られるとはまったく思えません。

まずこの映画の原題はEMPERORですが、これを「終戦のエンペラー」と敢えてしています。「敗戦のエンペラー」ではないのです。日本も海外でひどいことをしたが、それは欧米のやってきたことを日本もまねただけであり、お互いに責任があり、誰も日本を裁くことはできない、と日本の軍人に語らせます。

そして戦争を始めた責任は1000年経ってもわからず、天皇にその責任があったのかどうかはわからないというのが結論です。日本は白黒をはっきりさせない民族でありながら、ただし天皇に対する献身的な心は2000年続いてきたものであり、ここのところがミステリアスな日本人を理解する鍵であることを宣伝します。

そして一番明確なことは天皇が軍部の反対と「クーデター」(敗戦を承諾した例の玉音放送のテープを取り返すために1000人の軍人が立ち上がり、天皇殺害まで計画し実行しようとしたが、失敗に終わった、ただしその証拠は何も残っていないとこの映画はでっち上げている)にもかかわらず、戦争を終結する決断をした人そのものであり、アメリカの日本復興計画に協力したということを言いたいようです。

マッカーサー(この役はトミ―リージョンズがやはり存在感ある演技をしている)から一任されて天皇の戦争責任(関与)を調査する任務を与えられた、実在の人物に焦点を当て、彼が日本人女性を愛した完全なフィクションを背景にしながら最終的な結論をだしそれをマッカーサーが承諾し、そしてあの有名な天皇とのツーショットに至る最終場面へとつなげていきます。

奈良橋は「トモダチ作戦」をいいように捉えているんでしょうね。この映画は3・11大震災で被災した人たちに勇気を与えるものではなく、天皇幻想をまきちらし、現地を訪れた天皇をありがたがった住民たちにその幻想をさらに無限大に拡大させようとする悪意さえ、私は感じます。

海外で日本を、そして天皇をミステリアスなものと捉えていることを逆手に取り、天皇制を賛美し(しかもダウアーの『敗北を抱きしめて』のような植民地主義を批判的に観る視点は一切捨てています)、アメリカの世界支配を賛美するのが目的、と私は断定します。

福島の人にとっては現状は完全な棄民政策であるという認識はないようです。日本政府が戦後採ってきた原発体制を批判的に捉える視点はまったく欠如しています。ちなみに今朝のFBに書いたものを最後に紹介します。

私は残念ながら、彼女の意図とは全く違うことをこの映画から感じました。リベラリスト
(を自称するであろう)奈良橋は麻生発言を批判、否定するでしょうが、私は通底するものを感じます。ちなみに今朝のFBに書いたものです。

恐らく同じ時期、彼女と私は同じ大学のキャンパスにいたようです。国際性を売り物にするその大学の根の浅さを私は感じざるをえません。皇室から学生として初めてその大学に受け入れたことも自分の家系を自慢気に映画のパンフに書く彼女も、私は似たものを感じます。国際性、キリスト教というものを批判的に捉えない限ろ、この社会の搾取、抑圧の実態は見えてこないと私は思います。

憲法論議は「静かに」議論したいと善意に麻生発言を解釈しても、これまでの彼の発言を総合的に捉え返すとそこに見えるのは戦前の「大国日本」への復帰であり、植民地主義の積極的な推進論者だということです。だからこそ、レジューム・チェンジ確信論者の安倍のNp2になったのでしょう。東京。名古屋・大阪の首長、間接的であれ安倍を首相に押し上げたのは間違いなく日本人市民です。戦前の植民地支配を支えた日本人と今の日本人との違いはなんでしょうか?植民地支配の問題を敗戦後完全に忘却し議論してこなかったつけは大きいですね。戦後の丸山真男、大塚久雄の日本人「主体性論」に植民地主義の問題が完全に抜け落ちていたことが象徴的です。

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