発題
敗戦のもとにおける教会の再出発
渡辺信夫
(日本キリスト教会東京中会の靖国委員の企画した行事のためのプレ
敗戦とその責任
私は「敗戦」という負のテーマを生涯追いかけて生きて来た。このテーマがハッキリ捉えられたのは、1945年8月15日であるが、その前から敗戦を予感していた。というのは、私に先見能力があるというようなこととは無関係な事実体験である。そのことにチョッとだけ触れておく。私の体験した戦闘場面は、レーダーを持つ強者と持たない弱者との戦いであって、戦う前から勝敗が決まっていたのだ。相手に見つかれば船団は全滅、目こぼしにされている限りは生きておられる。
深刻なことは、その予想があったにも拘わらず、敗戦を考うまいとしていた私自身の心構えである。帝国海軍は無敵である、という宣伝に騙されて、そう信じた人もいる。私の場合は、人に騙されたのでなく、自分で自分を偽った。勝つとは思えなかった。したがって、必ず敗れるという予想が一面にはあったから、敗れて心外だという混乱、騙されて悔しいという思いはない。だが、自分で自分を騙していた愚かさを、自分で審判しなければならない屈辱感がある。生涯抜け切れないのである。
自分自身の誤りに目覚させられた事件については、何度も人前で語ったから、今日は話さない。が、もう一つ、上に述べたのと同じと見て良いことがある。すなわち、戦争で死ぬ無意味さを認めようとせず、死ぬことの意味づけを大真面目に考えていた。もちろん、天皇のために死ぬことの名誉を考えたのではないが、人に代わって、人々のために犠牲になることは、神が善しとしたもうことだと自分に言い聞かせていた。どこが間違っていたかといえば、人のために死ぬと言われたことは、政府が、あるいは軍部がそう教えたというだけで、全然人の役には立っていない。この愚かさ、浅はかさ、あるいは自己欺瞞、非現実への逃避、それに気付いてからも、そのまま生きていただらしなさである。これの全面的な裏返しが戦争に生き残った者の生き方になる。それは喪失と回復であるべきだが、実感としては喪失に次ぐ喪失であって、回復は極めて小さい。
そういうことがあるので、私は戦争について語る時、人から聞いた話はしないで、自分が思い知らされた確かな事実についてだけ語ることにして来た。そうしなければならない義務はないが、事実を見て来た私には、「生き証人」となる責任がある。だから、考えたことを語るよりも、見たままの事実を証しすることに重点を置くべきだと心得た。他の人もこうせよと言うつもりはない。
戦争を見て来た人は、今では僅かしか残っていない。殆どの人は伝え聞いた話を、見て来た事実のように語っている。かつて、見ていない人と見た人との違いこそ重要なのだと頻りに論じられる時期があった。そして、経験していない人は経験した人との間に絶対的な格差があるかのように引け目を感じ、経験者は「見ていない者は黙っておれ。お前らには言う資格はない!」と決めつけたものである。だが、その区別に大した意味がある訳でないことに気付いた人は多い。
この件について、もう少し語らせてほしい。「見ていない人は過去のことを語る資格がない」と極めつけるならば、結局、これまで、またこれからの歴史を否定してしまう。歴史というものは、当事者が死んだ後でこそ、客観性を獲得して、書き上げられるものである。「見た」と言っていた人がいなくなってからこそ、これまで見えなかった事実が見えて来て、それでこそ本当の歴史である。だから、過去の或る時代を見ていない人は、見ていないということでコンプレックスを感じるのでなく、これからこそ見えて来るのだ、という理解と思想を持つようにして貰いたい。言い換えれば、先の時代の人が上辺しか見なかったことを、次の時代の人は、深層まで見抜くのである。その責任を、過去の「証言者」の持っていた義務感に劣らない厳粛な責任感をもって洞察しなければならない。
さて、「敗戦」について語る時、私は殆どいつも、自分がその当事者であると自覚しつつ敗戦を論じて来た。したがって、敗戦に関わる一切のことは、自分がまだ気付いていない点も含めて、私の責任外とは言えないのである。勿論「私の敗戦」という枠で、敗戦の全てを包み込むことが出来る訳はない。敗戦はもっと広大な空間の中で、広い視野から捉えられなければならない。そうでないと、敗戦に関わる問題は部分的にしか見えないし、当然、解決も出来ないのだ。実際、敗戦に関しては問題の積み残しが随分おこり、放置され、加害者は加害者性を忘れ、被害者にその責任が負わせられ、事実が隠蔽されたに過ぎないのに「解決」だとされるのである。
敗戦を自分の責任として捉えなければならない人が沢山いる。特に上層部に多い。その人たちの責任追及を私はしなかったのだが、私よりももっと適任の人がいると知っていたからである。すなわち、損害を受けた人なら明白な証拠を挙げて加害責任者に賠償を請求することが出来る。そういう被害者が沢山いるから、実際の被害を余り受けていない私は、黙っている方が良いと思っていた。しかし、責任追及をしなかったのは、ことを起こす面倒を避ける怠慢の自己弁護に過ぎないかも知れない。
敗戦の多面性
一つの挿話を参考までに付け加えて置く。敗戦後、復員して実家に帰ったのは、私自身の病気入院のため、数週間遅れたが、手続きとしては召集された予備役軍人の召集解除であるから、艦内でも現役兵より早かった。ところが、帰宅したその週のうちに「海軍艦艇の乗組員は、外地残留軍の復員輸送のため至急帰艦せよ」という指令がラジオで流れた。私の健康は回復していなかったが、喜んで2度目の応召した。2度目の召集と呼ぶのは正規の言い方でないが、召集されたに勝る義務感をもって服従した。しかも、人殺しのためではないから、心は軽かった。
大阪で乗車した列車は復員兵で一杯であった。尾道まで行った時、これから先は線路が台風で破壊され、復旧の見込みは立たない、と言われて、降ろされた。その後のことは今日の主題と関係ないから割愛するが、2度と経験しない事ばかりであったから個人的には思い出の深い旅行となった。
大村湾に碇泊していたもとの艦に戻ると、「予備士官は召集解除になったのだから、出て来なくて良かった」と言われた。意気込んで帰って来たのであるから、拍子抜けになったが、ガッカリした訳ではない。
戦争が終わって、なお生きているなら、人生のやり直しとして、学問を初めからやり直さねばならない、と考えていた。だから、「来なくて良かったのに」と言われた時、ならば学問の世界に戻れる、と直ちに判断した。もし、あのまま復員業務についたなら、戦後処理の局面の一部を見ることが出来たはずである。――何を言わんとするかというと、無条件降伏で事は全部終わったと思ったのは勘違いで、戦争の後片付け、むしろ後始末という業務が残っていることに気付かせられた。それは戦争の場合ほど多数の人手を必要としないから、予備員は免除されたということである。
復員させるべき二百万の兵が外地にいたし、占領地に入植させた非戦闘員を連れて帰るまでは戦争が終わったことにならない。これは戦争を始めた国家の義務であるが、日本国はその義務を果たさず、夥しい民を置き去りにした。「棄民」である。棄民の多くは誰にも知られぬまま死んだ。或る人は事実を語り出し、それを聞き流しに出来ない人がいた場合は取り上げられたが、戦争の続きと見る人は少ない。
見捨てられたのは自国民だけでなかった。他国の軍人や非戦闘員で日本軍の暴行によって障害を受けた人、凌辱された婦女子たちは補償を受けるべきである。しかし、日本政府はそれをしていない。これは戦後責任の放棄である。この点に国民の大多数も気が付かない振りをしている。私は敗戦の初期、敗戦を担うべきだということを考えたが、私の考えていた敗戦は事実と余りにも違う矮小化されたものであった。
担うべき課題は、拾い上げれば、どんどん増えて行く。「戦争犯罪人」として刑を受けた人のこともある。この場合、本人の犯罪だから、本人が刑を受けるのは当然だと見られる。しかし、彼らを裁いた極東軍事法廷は、正義に則って裁判をしたか。冤罪でないことが確証されているか。上官の命令によって行なった行為について部下が裁かれ、上官の責任は糾明されなかったのではないか。被告には弁護士がついたか。被告人に弁明の機会が与えられたか。――これらの規定が守られた場合はあるが、無視された場合の方が多かったようである。だから再審が必要である。
戦争犯罪人の追及は国内では秘かに進められた。大っぴらにはされなかったが、軍隊帰りの学生の間では風聞はスグ伝わった。後から事情が分かって来たが、学生上がりの下級将校が戦犯容疑者の中に比較的多い。上の者の責任を被らされ易い地位にいたからである。直接の関係者は沈黙するから、分からなかったのだが、隠密に連行される人がいるらしい、という不気味な空気を私も感じたのである。
特に考えねばならないのは、旧植民地の人民であって、軍事法廷では日本軍人として裁かれた場合である。日本人の戦争犯罪人が刑を受けた事については、日本政府が補償金を払ったが、日本国籍のない者には補償していないという不条理があった。
日本の戦争犯罪は、戦勝国による復讐として行なわれたのだが、日本の戦犯裁判はこれで終わって、正義は回復したのか。全然そうでなかった。殆ど手を着けていなかった分野に立ち入ったこととして「アジア民衆法廷」と「女性法廷」が実行された。しかし、裁かるべき者の断罪は、ジャーナリズムの地平で行なわれただけで、日本の旧勢力の利益誘導のもとで曖昧になっている。
今、一端を示したに過ぎないが、日本政府は敗戦後責任に目をつぶり、日本国民の殆どもこれについて考えようとしなかった。それなら、せめてキリストの教会は、日本に置かれている主の民なのだから、責任を自ら掘り起こして、真剣にこの問題を先ず調査すべきであった。それだのに、一般日本人並みに、これを知らないことにしている。こんな姿勢で「罪の赦し」を人々に説いても、聞く人々が真剣に受け止めてくれるであろうか。
教会の狭い意味での責任
私は戦争に関わる責任追及を専ら己れ自身に向け、他の人の責任は取り上げないつもりでいた。だが、戦後数年して、教会の仕え人になった時、自分個人の責任だけでなく、教会の責任をも論じるように転換せざるを得なくされた。戦争の相手国は日本の罪責を追及しないと言ってくれる。まして、教会の戦争責任が戦勝国から問われることはなかった。その寛容は有難く受けるとしても、罪責そのものがなくなった訳ではない。処罰は免れるとしても、罪責そのものは確実にある。これは和解の主から直接に受けて確認しなければならない課題である。
また、外国、特に近隣諸国に対しての加害責任だけでなく、国内の教会と教会員に対する加害責任、放置責任がある。私自身が教会から受けた深刻な被害がある。このような被害は私が忍従して耐え、被害を修練として受ければ良いではないか、と判断していたのであるが、自分の受けた被害については沈黙できるとしても、教会が信徒に与えた被害については無視出来ないから、それを認めない人に、あからさまに責任を迫る義務がある。
被害の一つ。軍隊に入る3カ月前に、私は教会から棄てられる苦衷を味わったのである。青年会の中で、ハイデルベルク信仰問答の読書会をしようと提案した。その理由として、今度の教会合同によって、信仰のよって立つ原理が曖昧にされる危険があるから、我々の守るべき立場をシッカリ学び直さねばならない、と論じたのである。牧師は真っ向から反対して、これまで一つでなかった教会が一つになったのだから、教会は良くなったのだ。それを悪くなったように言うのはとんでもない誹謗だ、と私を叱った。そこで論争になった。長いやり取りがあった末、私は「先生の神学と私の神学は違う。もうこの教会には来ない」と宣言した。長老のある人も私をひどく非難した。挙国一致体制の中で、教会の異分子排除が行なわれたのである。
私の方から教会を棄てたのではないかと言われるかも知れないが、自分ではそう思っていない。私は「教会を信ず」という信仰を持っていた。当時と今と私の神学理解は雲泥の差があるが、今でも同じ局面に立たされるなら、同じことを言う他ない。
それからは省線電車で2駅先にある日基の教会の礼拝に通った。間もなく私が軍隊に入る日が来た。その頃、教会員で出征する人があると、どこの教会でも祈祷会を開いて送り出したのだが、私だけはその扱いを受けなかった。私が恨みがましく言っている、甘えていると取られるであろうが、私は大事なことを訴えている。戦地に行く人を祈って送り出すのは、教会としてなすべき最低限の義務ではないか。教会の指導機関はそのように指導すべきであった。特に指導されなくても、多くの牧会者は主の群れを飼う牧者としてそうしていた。だが、この原則を無視した教会もあったのだ。教会に頭を下げて戻って来るなら送別会をしない訳には行かないことになったであろうが、間違ったことを言っていないのに謝るとすれば、私の信仰的良心はおかしくなる。
これから戦争に行こうとしている信仰者が、どういう緊迫した意識を持つかを、戦争を知らない世代の人は考えたこともないであろう。が、戦争に駆り出された経験のない人は、私が今語っていることがピンと来ない、とセセラ笑うかも知れない。しかし、今、国民を戦争に駆り立てることが出来るように憲法を改悪し、軍命令を履行させるために軍法会議を設置するのだと自民党の有力者が公言している。若者たちは、自らの生死の問題と、「殺すなかれ」との神の戒めを受けている良心の葛藤という問題の前に立たされる、という日がまた来たのである。
この程度のことは理解出来る真面目さを取り戻して貰いたい。不幸な成り行きであるが、日本の国はまた徴兵令の施行される方向に向いてしまった。若者たちが自分の生死と自分の信仰的良心の判断について、苦しまねばならない日が来たのである。今の大人たちは、その日に、青年たちの魂の苦衷を彼らと一緒に苦悩し、一緒に祈ることが出来る者になっていて貰いたい。かつての戦争の時に、日本の教会の大部分の人は、死地に赴く信仰者の苦衷を理解していなかったのである。戦争を知らない子供たちが大人になっている現代で、大人たちは昔の大人たちが青年を理解できなかった以上に無理解なのではないかと私は心配でならない。昔の大人の中には、「死ぬなよ。捕虜になって好いから、生きて還って来い」と言って、青年を送り出す人がいた。青年と同じように軍法会議に掛けられることを、牧師は覚悟すべきである。
これに似たもう一つの経験がある。
軍隊に入った私は、主の日には行ける範囲内にある教会で礼拝を守った。礼拝を守るということは形式主義に過ぎないと言われるかも知れない。言いたい人に勝手に言わせて置いて良いかも知れないが、軍隊の奴隷労働の中で主の日の礼拝を守ることは、非常な喜びであった事実を確かめてから物を言って欲しい。
以上は訓練期間のことである。訓練を終えて、任地を与えられた軍人として最初の主の日を迎えたのは、沖縄に赴任する便を探して佐世保にいた時である。前日、日本基督教会佐世保教会の場所を確かめて置いたので、開会とおぼしき時刻の前にそこへ行った。しかし、会堂には鍵が掛かっていた。誰か鍵を持った人が駆け付けるに違いないと思って待った。昼まで待って、誰も来なかった。
牧師が東京に移った後だということは後日知ったが、牧師がいなくても教会が消え失せた訳ではないであろう。「この町には私の民がいる」とキリストが言われるのであるから、そこにはその町の教会がある。教会があることの証しを立てる業は、牧師がいなくても出来る。会堂がなくて民家や他の建物を一時的に使わねばならない場合はあり得る。しかし、会堂があり、看板も掛けてあって、人がいない。いや、礼拝しようとする人が来ているのに、その人を会堂に入れまいとする力が働いている。天国の門が閉じられたのと同一だと言っては言葉が過ぎる。しかし、こういう目に遭った人がどんなに辛い思いをするかを想像できるようになって置いてほしい。日本の近未来はそういう社会なのだ。
それは已むを得ない緊急のケースであった、という釈明は出来るとしても、日曜日が来ることは前々からきまっている。誰かが鍵を開けに来ることは出来た。会衆は一人だけだが、とにかく礼拝を守ったという例は沢山ある。定められた場所で主の日の公けの礼拝が開かれることは教会の規律である。それが守られなかったことを教会の痛みとして忘れないようにしなければならない。
私にとって、それが地上で礼拝を守る最後の機会ではなかった。しかし、最後の日と思って教会に来る人がいたけれども入れなかったということは有り得る。その町に教会が建てられているということは、そのような人に対する責任を担っているという意味である。当時、教会が教会としてなすべき責任を果たしていなかったのは、戦争だから已むを得なかったのだという弁明が安易にまかり通り、責任はそれ以上問われなかった。が、それで良かったのか。私は戦後の教会の中で、自分の戦争体験をもとにして、教会はこういうことで良いのかと問いかけることが時々あったのだが、罪責意識が浮き上がったものとして扱われる辛い思いをしたのである。教会が戦争に加担したことを本当に悔いているなら、そのことで教会法廷を開くべきである。私自身が被告第一号になっても良いから始めようと提唱したが実現しなかった。
敗戦を私が先ず自己の問題として捉えたことは繰り返し語った。その次に教会の問題として捉えるように転換したことも述べたが、この部門では語るべきことが遥かに多い。それは私が一個の私人というよりは、教会の仕え人として生きることに重心を置いたからである。このことは言い換えれば教会を敗戦の主体として捉えたと言える。そして、教会にとって敗戦からの回復は日本キリスト教会の再建である。その再建の経験を語るには今日は時間がない。が、ひとこと言うならば、戦争によって敗北状態になった日本キリスト教会は、未だ敗戦状態であり、ますます敗色が濃厚になっている。
抵抗権を持つ神の民
戦争中の教会の責任として語ることをもっと続けなければならないが、時間の制限がある上、さらに重大な問題が残っているから、次に進むことにする。
私が戦後間もなく考え始めたのは「抵抗権」の思想を日本において教会が確立すべきだという課題であった。自分の恥を明らかにするが、私はこれを戦争が済むまで殆ど考えたことがなかった。まだ未熟だったから已むを得ないと言う人はいるが、幼くてもそれ位の知恵は良心と併せて授かっていた筈である。教えなかった側の責任だと論じることも十分成り立つ。それはそれとして、人から教えられなくても主の民ならば知っているはずのことだ、という面がある。私は自分の責任として、知るべきことを知ろうとしなかった点を上げるが、やがて教会の教職となったから、教えるべきことを教えない罪についても深く考えさせられるようになった。
では、どのような成果を得たか。学問としての体裁をとるものは一応書き上げたと言えるかも知れない。原理的な事は明快であり、平明であるから、国際的水準に達した。使徒行伝4章に言われる通り「人に従うより、神に従うべきである」。この一言でほぼ尽きている。宗教改革の教会はこの原理を子供にも教えた。時間省略のため各自後でカルヴァンの「信仰の手引き」の33項の終わりの部分を読んで貰いたい。
しかし、このことをどのように教えれば良いか。教えの文言は簡単であるが、その簡単なことを実行する準備、心備え、比喩的に言えば、良い実を実らせるための土壌作りはどうするか、このための長期に亘る労苦が必要である。
先月、信州夏期宣教講座のエクステンションが「権力者に対する教会の闘い」という主題のもとに福島で開かれた。昨年来の日本国の政治の急激な右傾化の中で、少なからぬキリスト者が関心を寄せる問題である。そこで私も一つの講演をしたのであるが、改革派の宗教改革の顕著な特色として、抵抗権の思想があり、実例がある。その実践を今こそ日本において展開すべきではないか、という激励演説が期待されたと思うが、私は景気の盛り上がる話でなく、英雄的指導者の出現の話しでもなく、こういう宗教改革がどのようにして育って行ったかを観察したのである。
16世紀の初め、ヨーロッパの中でも、特に南ドイツとスイスのドイツ語圏の都市で、市内の牧師たちが集まって聖書の共同研究を始めていることが注目される。聖書の印刷が聖書の研究を促し、聖書の共同研究から牧師たちの間の、聖書に従った教会の改革という姿勢が生まれた。従来の司教座を中心とする体制よりも、聖書を中心とする交わりが力を持つようになり、ローマ教皇座を教会の頂点と考える教会観は教会改革の力を失って行く。
それと同じ時期に、自覚的市民のいる都市は、皇帝や王侯の支配から自立した自治体として立憲政体を目指す都市国家になって行く機運が生まれる。教会と国家はもともと別個の原理に立つのであるが、時間と空間とまた民衆を共有するものとして協力関係に置かれる。その関係の中で、教会論も、世俗世界の法学と政治学もだんだん学問の密度を高める。
世を統治する権力を神から受けたのは、国家、あるいは王侯であって、教会は地上的権威を有しないことが意識される。教会はそのメンバーに対して、権力への服従を教えるのであるが、地上の権力がそのよって来たる神の意志に反することを命じるなら、民衆は当然、不服従、抵抗を実行しなければならなくなる。こういう理解が普遍的に流布したとは言えない実情だが、この原理を否定することは出来なくなって行く。
話を端折るが、悪しき権力に対して信仰者は抵抗しなければならない、と言うと、今なら賛成を得るのは容易であろう。しかし、抵抗の成果は挙がったのか。初めは盛り上がるかも知れないが、間もなく腰砕けになるに違いない。理論を操ることは簡単だが、戦いは簡単でなく、戦いを実行するための各部門における修練は貧弱である。改革主義のキリスト教が抵抗権を行使する実力を或る程度獲得できたのは、先に述べた都市の自治の経緯を経て信仰の知恵とこの世の知恵を練磨したからであると私は思う。
終わり
渡辺信夫先生は、このたび、NNAAのNPO法人化にあたり理事長の職を引き受けてくださいました。日立・東芝・GEを相手に彼らの社会的、道義的責任を問う「原発メーカー訴訟」の運動や、原発の関する様々な問題を明らかにして核のない社会を目指すことを目標にした、市民の国際連帯運動を拡げていこうとする組織の理事長というのは荷が重いと感じる人が多かったのでしょう。
その中で90歳になられる渡辺さんはそのようなことであれば引き受けざるをえないとおっしゃってくださいました。毎日のFacebookやメールに目を通し、活発に意見を述べられ、日刊の新聞や雑誌には必ず目を通され、海外への講演にも度々行かれる渡辺さんのご意見には戦争のご経験とご自身の責任ということから教会のあり方を徹底して求められる方です。これまでこのブログで2回、紹介させていただきました。8月15日、今日この日に渡辺さんの敗戦記念シンポジウムとして「発題 敗戦のもとにおける教会の再出発」をご紹介できることは大変意味のあることだと確信に、渡辺さんにブログ掲載の承諾をお願いしました。 崔 勝久
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