私はかなりはやい段階でNNAAの法人化の決定をし、理事や議決権をもつ人の人選を終えあとは理事長を選出すれば法人化の登録ができるところまできていました。ところがこの理事長に就任してくれる人がいませんでした。
NPO法人化に関してはいろいろと意見があることはわかっていますが、これからの海外との交際連帯を考えた場合、まず任意団体では便利な送金システムが使えないとか、口座開設さえおぼつかなく、私たちはNNAAのNPO法人化に踏み切りました。
NPO法人化されたNNAAとしてなにをするのか、これは関係する仲間とさらに話し合う必要があると判断しています。改めてその機会を作りたいと思います。
<意外な展開ー渡辺信夫さんとの出会い>
27日に私が韓国から帰国した日の夜、信頼する教会のT牧師から電話があり、理事長がまだ決定していないのであれば以前薦めた渡辺信夫さんと接触することを強く推されました。著名な方であっても90歳という年齢に驚き、理事長になっていただくということから少し距離を置いていたことは事実です(自分の不明を恥じます)。
しかし渡辺さんにお電話を差し上げTさんのご紹介でお会いしてお願いしたいことがあると話したことから、私はNNAAの活動とNPO法人の理事長就任の話をしました。そうしたところ、誰も引き受けないというのであれば、それが重要なことなのであれば断るわけにはいかないでしょうとおっしゃったのです。それで本日、自宅に伺い、2時間にわたり話し合いをしました。
途中、韓国の教会の状況に関しては現実認識が異なることはありましたが、渡辺さんがおっしゃるように「教会に裁判を担う実態があるのか」という点は、今後の運動の推移を見ていかなければならないと思います。
長年、いかなる組織においても敢えて「長」にならなかったとおっしゃる渡辺さんは、90歳を過ぎてもメールやフェースブックをなさり、長文の文書もPCで作られておられるようです。日本の戦争責任、加害者性ということは自分のテーマとして考えて来たとおっしゃる渡辺さんから多くを学びたいと思います。本日送ってくださった渡辺さんの講演録をみなさんにご紹介いたします。これで11月11日の原発メーカー提訴の日までに、NNAAのNPO法人化が間に合うと思います。
話しが終わったところで渡辺さんから祈りましょうとおっしゃり、簡潔でしたが、本当に神の導きがありますようにという心からの祈りの言葉が語られ、私も大きな声でアーメン
(然り、そのようになりますように)と言いました。 崔 勝久
参考資料:渡辺信夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/01/19 13:21 UTC 版)
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%BF%A1%E5%A4%AB_%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%BF%A1%E5%A4%AB%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81
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2012.8.13.東京中会靖国委員会学習会
原発を問う教会、原発から問われる教会
戦争罪責と原発問題
渡辺信夫
今日の集会で、発題者の一人である私に課せられた任務は、自分自身についての厳しい糾明である。すなわち、戦争罪責の問題を喧しく論じて来た私が、原発問題にまともに取り組んでいないのはどういうことか?と不思議に思われたであろう。――疑問は当然である。さらに、私の側から付け足すなら、私は伝道者になった初期から、特に第五福竜丸の事件との関連で、核兵器反対運動に時間と精力を注いでいた。それだのに、原子力平和利用という声が強まって行く中で、運動から手を引いて行った恥ずかしい事実がある。
運動から手を引いたについては、理由を述べることが出来る。ただし、それらの理由について今日深く触れるべきでない、と判断している。理由の一つは反核運動が分裂し、運動そのものを立ち行かなくしたことである。分裂させないためには莫大な精力が必要で、私にはとても出来なかった。
第二に、私には特に力を注がなければならない使命があった。それは教団離脱と日基の神学的充実の作業である。日基は当時、無学な田舎者の集団と見られ、侮蔑されていた。寸暇を惜しんで学問の練磨をしなければならなかった。
第三に「原子力平和利用」の宣伝に乗せられたからである。この宣伝の胡散臭さは感じており、基本的には原発不賛成であったが、この宣伝で反対運動は腰を折られた。
上述3点のうち第3項について、自己反省的な検証をしなければならない。初めの2点については、もし必要なら詳論するが、他日にして欲しい。
「核エネルギーの平和利用」というキャンペーンが、どういう人たちによって、どのように仕組まれたかについて、昨年後半以降、ジャーナリズムが十分な説得力をもって、実名をあげて紹介している。それを纏めて自分の見解のように語れば、私の発題の務めは済むかも知れない。それをしないのは、私の責任を他の人に転嫁してはいけないからである。私が騙された被害者だと言うことは出来なくないが、騙された責任は問われるし、問いには答えねばならない。では、私がどういう点で騙されたのか。これを昨年3月以来、探求している。まだ十分でないが、分かったところまでを述べて置きたい。
「原子力平和利用」という言葉が語られて以来、反対運動の火が消えたと言ったが、キチンとした思想の持ち主らは姿勢を崩さず、反対を叫び続けてくれた。その人たちに敬意を表したい。彼らは不遇に耐えて節を守った。これは変遷する流行とは別の問題、理論と倫理の正しさである。その人たちと比べれば、私の欠陥がどこにあるかがかなり見えて来る。
3・11に続いて福島原発の事故が起こった。それまでの宣伝では、そういう事故は起こるはずがなかった。事故そのものに続いて、事故の危険性の隠蔽と情報開示の作為的遅滞、責任回避、また事故以前の不正としての買収、恫喝、欺瞞、事実隠蔽、韜晦、強引さ、論理的また作業上の手抜き等々が次々明るみに出た。ここで私のような愚かな者でも騙されたと気付いた。以前から原発の危険を唱えていた人は、危険な状態にすでに陥ったと発言したのに、東電と通産省は危険を隠蔽し、隠蔽が間もなく破綻したことによって、多くの人は騙されていたことを悟る。
ここで明らかになったのは、推進側の科学的理論の貧困と、その理論的貧困に連繋しているらしい欺瞞体質、すなわち倫理的欠陥である。その問題をこれまで見抜くことが出来なかったところに私の落ち度があった。科学的理論立ての正しさと、倫理観の正しさ、この二点において、原発反対の主張を高々と掲げ続けてくれた人たちは、私より遥かに優っていた。だから、その人たちに倣わなければならない。
ところで、この二点は、別々の次元の問題であり、別の規準で判定される。だから、答えは別々の分野の作業として構築される、と一般的に考えられている。私もそう考えていた。しかし、不完全な科学的理論は理論として貧弱であるだけでなく、倫理的脆弱さと結びつくという事実が見えて来る。何故、結びつくのか? 理論の貧困と倫理の貧困は根っ子が本質的に繋がっているのか? それは論証出来ないように思われる。では、二つの欠陥を結び付けるものが何かあるのか? その結び付ける仕組みについては後で触れる。
差し当たっての実践的問題を触れるが、キリスト者がこの世で責任ある生き方をするためには、双方を統一的に処理しなければならないということを確認し合って置こう。ところが、それは多重的な業務であって、二重の重荷に耐える人でなければ担えない。日本では学問を理科系と文科系に分ける俗論がある。その俗論を否定し、文理両面に亘ってこそ真の教養だという議論が昔からある。正論だが、実際にそれだけ広い領域をこなすことが出来るのか? 私自身ここでギブアップして、文科系人間に留まっていた。
私の場合は能力がなかったから、許してやろうと言って貰えるかも知れない。が、私のことは別として、事は公の問題である。知的能力の限界を理由に責任者の責任免除が出来るのか? 「公」の問題と言ったが、これは政治家らの所謂「天下国家」の問題ではない。「全てを支配しておられる神の前に立つ信仰者の問題」、あるいは「教会の問題」である。教会は世界の中に置かれているのであるから、世界の隣人の安全という普遍的課題に無責任であってはならない。
実際、核の利用が生み出した大災害は、信仰者だけの問題でなく、心ある人、物を考える人なら当然責任ある取り組みをする。自分は文科系の学問しかしていないから、原子力の利用について口を出せない、と言えるのか? ……話が飛ぶようであるが、昨年、日本の科学者の会議が初めて文科系の学者を議長に選んだ。この重大な時期に理科系の頭では判断できない問題があるのではないか、という危惧の表れであろう。前例のないことだが、原発事故の後、理科系の人たちは、理科系の思考法だけでは危険だと感じて、文科系、あるいは哲学系の学者を立てるようになったのであろう。
このことで何が言えるのかは難しいが、これまでのような理科系・文科系の割り切りでは何も言えなくなったことは明らかである。さらに教会の追求すべき知恵、これを一応「神学」と呼ぶことになっているが、神学は文科系学問か? 違うのではないか? もっと深く・広いのではないか?
今日の主題から逸れているかも知れぬが、文科系という捉え方について、一言触れる。これは決して新しい説ではなく、古くから考えられたことの繰り返しである。文科系の「文」はコトバである。コトバはココロに通じる。ココロは真実と直結しなければならない。ところが、文科系の学問をした者が、官僚や政治家や財界人になって権力を行使している。彼らのコトバは真実か?そうではない、という問題が、今日ここに集まって考えようとしているテーマとの関連で浮上している。
例えば、大飯の原子炉の安全は確認されたから確信をもって再稼働する、と一国の首相が言った。それはウソだと思う人が毎週首相官邸を取り囲む。彼らの憤激は尤もである。首相は言葉を並べて、言葉の辻褄が合ったから真実だと思っているだけなのだ。3・11以前の安全神話と同じ虚構である。書類上のコトバが合っているから合格だ、と言っているだけである。文科系人間の屡々陥る落とし穴である。理科系の人は、違った考えをするように訓練された。すなわち、実験なしで理論を立ててはならない。もっとも、ここにも落とし穴があって、例えば、原爆の「黒い雨」については実験データがないから、信用が出来ない、と恥ずかしげもなく言い切る科学者がいる。
主題からの逸脱をもう少し許して頂くが、教会のコトバも政治家のコトバと似たものになっていはしないか? これでは、安全神話を謗る資格はない。今日の原発をめぐる議論もコトバの遣り取り、要するにコトバ遊びではないか? そこをシッカリ考えよ、と私は呼び掛ける。教会で語られる言葉が、コトバ合わせとして通じれば良いと思ってはならない。心に通じる真実を検証しなければならない。この件については今日はここで留めて本論に帰る。
私は核問題を本格的に学ばなければならないと考えた。が、それは核物理を学んで、核利用のテクノロジーを次に学ぶことか? 私がその学びを始めたとすれば、最初のページの途中で寿命が尽きることは明らかである。若い方には出来ることだが、少なくも私のような老年はこの道を行かない方が良い。では私にまだ出来る何が残っているか?
1)私は思想史について若干の弁えがあるから、核利用という飛んでもない手段を人間が考えた歴史を遡って検討することにした。
ある人の書を読んでいて、ハッとさせられた。著者は山本義隆、標題は「福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと」(2011,8月第1版、みすず書房)。著者については説明を省略する。この人を特に重要視したということではない。その本には、原子力利用という思想の淵源として、ルネッサンス期のピコ・デラ・ミランドラという思想家の名が上げられた。私は「そうだったのだ」と納得した。彼は人間の偉大さを論じ、人は何でも作り出すことが出来るという、誇り高い人間観を基礎づけた。
私がこの名を知っていたのは、宗教改革の勉強に携わって来たからである。この人は宗教改革者ではなく、反動的なカトリックの側の人でもなく、宗教改革とは全く離れた人間本位の立場に立つ。宗教改革とは無縁であるが、同時代の思想家である。宗教改革者と討論した事実はないが、改革者の側で対立意識を持っていたことは確かである。人間が自己を大いなる存在と自惚れてはならない。だから、改革者の精神を継承すると言っている私が問題にして当然であった。
2)ピコ・デラ・ミランドラと同類ではないが、若干似た思想家で、宗教改革者が批判していた、もう少し有名な同時代人にマキャベリがいる。人名を挙げることで議論を混乱させては良くないが、この名を出せば、問題の理解が容易になるかも知れない。マキャベリの名は山本氏の書物には出ていないが、私は当然この名を思い起こすべきだと思う。
マキャベリは支配者の権力の機能を絶大なものと見た。この点で改革者と対立する。改革者は権力を神に由来するものとして捉えるが、権力を絶大なものとは決して考えなかった。そのことではカルヴァンの「キリスト教綱要」第4篇20章を読んでほしい。
現今、核エネルギーの問題に、種々の権力が大幅に関与している。エネルギー利用の専門家は学的権威を振りかざして安全神話を持ち上げた。政権と官僚機構は強引に原発事業を進めた。事故が起こった時には、政権と官僚と巨大資本の電力会社の複合体が一般民衆に事実を隠蔽した。そこに財界が介入して災いを起こし、災いを大きくし、原発再稼働を強引に進めた。だから、マキャベリズムの思想的克服がキリスト教として重要である。国家のような力あるものの拘束から人間の魂を解放することが教会の務めである。
理科的な考え方そのものが倫理的欠陥を持つのではないが、核エネルギーの工学を学んだ人が隠蔽体質を身に付けたのは、その学問に本質的欠陥があるからではない。権力構造というものが人間関係によってこの工学に結び付いたことによると見るべきである。
ここで、教会が権力的なものと如何なる関わりを持つべきかを省察することになる。教会は政治的に行動すべきでない。教会は霊的権能を委ねられているが、この世を支配する権能はない。教会内職務はマギステリウム(上からの支配)でなくミニステリウム(僕としての奉仕)である事を宗教改革は明らかにしたが、この内部構造が外にも反映して、外に対して「支配」でなく「仕える」こと、ディアコニアとしてのみ関与する。
これは、政治に無関心であれと言うのではなく、政治に対しては「見張り人」の務めを果たさなければならない。この務めのため、誤謬を発見し・指摘する「叡知」あるいは「知性」を、神の言葉によって養い、また練磨する必要がある。「知性」を鋭くまた豊かにする修練は「教会政治」と呼ばれている分野の一環でなければならない。
宗教改革の教会は、政治的権力の増長に常に歯止めを掛けて来たと私は思う。こう論じるだけでは理論的に不十分だが、これだけでも、核エネルギー利用に関し、科学技術の力の過信、過度の自己主張、巨大行政権力の慎みなき介入、財界の分を越えた政治行動、それらが今回の原発事故を来たらせた経過を明らかにし得たと言える。
現今、反原発の大衆行動が盛んである。我々の学んで来た宗教改革的神学では職務による行政という範囲までは考察できたが、その枠を越えた大衆行動に関しては何も教えない。そのため、この行動に対して否定的な姿勢を取る人がいるのではないか。
余分なことと言われるかも知れないが、一言述べて置く。今知られている反原発の大衆行動は無秩序と見られるとしても、秩序破壊のための暴動ではない。人々がこういう意思表示をするのは生命の危機が迫っている時、官僚や巨大資本が事態を収拾する能力を失ったこと、そして現在の危機を引き起こした自らの力についての反省が出来なくなって事への異議申し立てである。
官僚や大資本は秩序を守らせようとするが、その秩序は官僚と大資本の自己保全にしか役立たないことを、保護されていない不安の中にある人民大衆が表明しているデモンストレーションである。彼らは「反原発」という以外のメッセージを掲げることを相互に自粛し合う良識を持っている。政府でさえ、これを力によって弾圧すべきでないということまでは知っている。教会は少なくとも政府以上の叡知を持たねばならない。
3)最後に、短く「倫理」の領域、あるいは「生命」に関わる領域、また人間の営みとしての経済の領域について、神を知る者として考えまた語るべきことがあると言いたい。原発事故が起こるまで、また起こって以後、如何に多くの虚偽、無責任、放漫、軽率、隠蔽、無内容な言葉の濫用があったかについて、私から言い出すには及ばない。それは原子力利用以外の分野においても見られる悪であるが、この分野においては特に著しい。それは原子力利用そのものに関し、隠さねばならない弱点、あるいは矛盾があったからである。
さらに、「生命の将来」について、問題の先送りが決して許されないことに注意を促したい。核利用推進者には、現状についての危機感も将来に対する責任感も欠如していることを、その致命的欠陥として指摘しておく。これらの欠損に気付かせてくれるのは彼らの「良心」であるということを、我々は神の言葉によって知っているのである。
以上
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