2012年11月29日木曜日

Twitter論争ー多文化共生は何が問題なのか?

Twitterは匿名なので、私はネット上でtu-taさんと議論をしています。tu-taさんとの多文化共生論議は有益でした。それはtu-taさんが地域の問題を真剣に考えているからだと思います。

tu-taさんは、「ほんとうの意味で障害者を含めた、さまざまな文化的背景をもった人がともに気持ち良く生きていける社会をめざすことを「多文化共生」と呼ぶのだという立場はある得るし、ぼくはそういう立場に立ちたいと思います。」と記しています。これは単なる多文化共生の多様化論とは違います。きっと、いろんな立場の人が地域社会の中で「気持ちよ良く生きていける社会」を目指した実践をされておられるのでしょう。

私は川崎での「多文化共生」の実態を基にして、その批判をしました。しかしtu-taさんの思いはわかります。彼(または彼女)もまた、私のいういことに真理が深まれていて「嫌いじゃない、少し極端すぎるけど」とエールを投げかけてこの議論は終わりました。tu-taさんは私のことを少し極端すぎると理解し、私は、tu-taさんは多文化共生の実態をよくわかってないと捉えたということになります。

しかし今朝起きてみて、tu-taさんはどうして「多文化共生」とか「いろんな文化的背景」ということで「文化」という言葉を使うのか、気になりました。それは私が西川長夫さんの文明と文化がそれぞれ、フランスとドイツの国民国家のイデオロギーであったという本を読んでいたからです。そして私もまた国民国家と民族なるものを乗り越えようと考えるようになってきたからです。tu-taさんにはその本を紹介しておきました。

多くの在日のアイデンティティ論が民族論、ナショナル・アイデンティティを前提にしていることにも私は気付いていました。そしてその枠では実際に地域の様々な問題に関わり切れないということを知りました。おそらくtu-taさんは私の変遷をご存じないでしょう。日立闘争、地域活動を通して「民族運動としての地域活動」、「在日朝鮮人としての民族主体性」必死で求めてきて、今、そこからの脱却を唱えているのですから。その脱却には時間がかかりました。tu-taさんには以下のブログで書いたものからその「脱却」の意味を読み取っていただきたいと思います。

私たちの子どもの「教育」は失敗でした
http://www.oklos-che.com/2012/10/blog-post_11.html

以下、Twitterから掲載

崔 勝久 @che_kawasaki
「多文化共生」は、現代の植民地主義のイデオロギーです http://www.oklos-che.com/2012/10/blog-post.html?spref=tw … 偶然、読み返してみました。「在日」への強い思いが逆に「にんげん」やナショナリズムの問題を見落としていました。安易に語られる「多文化共生」への警告です。

tu-ta @duruta
 崔さんがおっしゃるような植民地主義と結びついた「多文化共生」は確かに少なくないですが、日本文化以外は価値がないみたいな右翼的な思想も多い中で、大切で捨てられない「多文化共生」もあるのではないかと感じています。

 崔 勝久 @che_kawasaki
 その通りです。しかし、多文化共生と日の丸・君が代の強調が並列されていることを見ても、あまりに多文化共生が過大評価されていると見ます。いかがでしょうか。

tu-ta @duruta
確かに「多文化共生」が日の丸君が代の強調と並列されていたりするような風潮に対して釘を刺す、という意味では崔さんの提起は重要だと思うのですが、大切に本当に多文化を共生させるような取り組みもあるので、その人たちを敵に回しちゃうのはどうかなぁと思うのです。

崔 勝久 @che_kawasaki
どうして敵に回すことになるのでしょうか?自分の信念として「多文化共生」を実践する人もいるでしょう。しかし権力者は「共生」と「統合」を同じ意味に使っています。右から左、経営者から組合、市民運動すべてが「多文化共生」を賛美するのは異常事態です。それをどう説明できますか

tu-ta @duruta
つい最近まで都知事だった石原さんは多文化共生は嫌いみたいでした。それを継承すると言っている元信州大学中核派の猪瀬さんも似たようなものだと思います。それが嫌いな右翼政治家は多いと思いますよ。

ここでの私の「つぶやき」は見当たらず。

tu-ta @duruta
確かに「多文化共生」は先住民の独立までは認めません。そういう限界はあると思います。しかし、人権を保障する多文化共生はありえると思います。現状のものはほとんどが不十分なことは間違いないですが。

崔 勝久 @che_kawasaki
私たちは独立を願っているわけではりません。国籍に関わりなく、人間としての権利を認めるように言っているだけです。現状が不十分なのは、国民国家とナショナリズムを前提にしているからです。多文化共生もまたそれを前提にしています。

崔 勝久 @che_kawasaki
さらに共生は多様化だといいますね。その多様化は外国人の人権を保証しますか。それは外国人の二級市民化です。共生の街といわれる川崎では、市長が、戦争にいかない外国人は準会員と放言したままです。外国人のためというのは、パターナリズムの温床であることをお忘れなく。

崔 勝久 ?@che_kawasaki
さらにさらに、共生で地域の変革が可能ですか。共生を謳い行政の恩恵を受るNPOが、全住民の課題である災害対策に本気で取り組み行政に物言えますか。災害で一緒に死ぬしかない在日は、地域の住人として共生を止揚して街のあり方に係わりますか、共生を謳う組織はどうでしょうか。

tu-ta @duruta
ほんとうの意味で障害者を含めた、さまざまな文化的背景をもった人がともに気持ち良く生きていける社会をめざすことを「多文化共生」と呼ぶのだという立場はある得るし、ぼくはそういう立場に立ちたいと思います。
共生をほんとうの意味で実現できれば、地域の変革につながると思います。確かに難しい話ではあるのですが。災害に関しても全住民を対象にする政策を行うことこそが、本当の多文化共生だと思います。

崔 勝久 @che_kawasaki
 なぜ多文化共生という単語、概念にこだわるのですか? 国民国家とナショナリズムの枠を前提にする限りみんな仲良くとはいかないのです。その枠を壊すしかありません。多文化共生の最大の問題はあなたの思いとは別に国家主義を前提にしているからです。

tu-ta @duruta
この言葉にこだわってるつもりはないのです。肯定的側面と否定的側面があるなぁと思っていますが。ぼくは多文化共生は国家やナショナリズムを前提にせず、ローカルな生活圏を前提にするということも考えられるのではないかと思うのです。

崔 勝久 @che_kawasaki
ローカルな生活圏を前提にするということ、私もまた必死で模索していることです。しかしそれを求めれば求めるほど、多文化共生とは程遠くなります。何故なら民族主義者は南も北も共生派も、そんなことに当事者として本気で関わる気がないからです。彼らの関心事は民族の枠内だけです

崔 勝久 @che_kawasaki
 そのような民族の実態を美化しないでください。在日に、共生NPOに、あなたたちと一緒になって地震・津波が来ても生き残れる地域社会を作ろう、本気になって行政に関わり、住民主権の地域にしていこうとはなしてみてください。民族、共生の実態がわかるでしょう。

tu-ta @duruta
アドバイスありがとうございます。崔さん、ぼくは嫌いじゃないです。崔さんがおっしゃってることに真理も多く含まれていると思うのです。ちょっと極端だなぁとは思うものの(笑)。

崔 勝久 @che_kawasaki
今朝いい忘れていたことを思い出しました。そもそも、文化とは何かを考えてますか。これもフランスの文明に対抗するドイツの国民国家のイデオロギーであるという西川長夫の論証をお読みください。『増補版 国境の越え方 国民国家論序説(平凡社)』。

論争後の感想
私もまたtu-taさんの言っていることは「嫌いではない」のです。tu-taさんは私のブログのヘッダーのところを読んでいないのかもしれませんね。そこにはこのように記されています。http://www.oklos-che.com/

OCHLOS(オクロス)は民衆を意味する古代ギリシャ語です。私は民衆の視点から地域社会のあり方を模索します。すべての住民が一緒になってよりよい地域社会を求めれば、平和で民衆が安心して生き延びていく環境になっていくのでしょうか。住民は国籍や民族、性の違い、障がいの有る無しが問われず、貧困と将来の社会生活に絶望しないで生きていけるでしょうか。形骸化した戦後の平和と民主主義、経済優先で壊された自然、差別・格差の拡大、原発体制はこれらの象徴に他なりません。私たちは住民が中心となって、それを憂いのない地域社会へと変革していきたいのです。そのことが各国の民衆の連帯と東アジアの平和に直結する道だと確信します。

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