「脱原発」声上がらぬ下北、反対運動 政治勢力失うー朝日新聞(2月19日)、これは2月19日の朝日新聞です。なんともやりきれない記事ですね。
2月18日、昨日の朝日新聞は外電で、「英仏、原発協力で協力 首脳会談で強化合意」と伝えています。アメリカのオバマ大統領もジョージア州での2基の原発建設を容認しました。事故に遭った場合の補償金などを考えると経済合理的に、原発はわりに合わないと言われてきたのに、この流れはどういうことなのでしょうか。北米での天然ガスの発見で廉価な天然ガスの供給が可能になってきたと思われるのに、この世界の動きはどのように考えればいいのでしょうか。
飯田哲也は『私たちは、原発を止めるには日本を変えなければならないと思います』の中で、「新しい自然エネルギーんの御三家、つまり、風力、太陽光、バイオマス発電が世界の設備容量が、原子発電の設備容量を超えた」「自然エネルギーですべてをまかなうということは、できる・できないといういう話ではなくて、いつまでにできるのかという、時間の問題なのです」と語っています。しかし現実は今後の中国、インドの原発建設予定を考えると、そのように楽観的に世界は進んでいかないと思わざるをえません。
一方、その著書の中で田中三彦は気になる発言をしています。「まったく新しいデザインコンセプトで安全な原発を作ることはということは、できなくはないとは思いますが、すでに建っている原発に関して考えると、これ3は不可能だと思います」(P 173)。これは後者を強調する言質であっても、それでも、「安全な原発を作ることは可能だ」と、あの田中三彦が語っているのです。それはビル・ゲイツたちが唱える主張と根本的に異なるのか、今の原発は危険だが、これから改造され、新しいコンセプトで作られれば原発は本当に安全なのか、これは大変重要な問題だと思います。
もしそうなら、現存する古い日本の原発は「安全な原発」に変えればいい、いや日本はしばらくうるさそうだから、海外に「安全な原発」を輸出すればいいということなります。そして事実、現実はそのように動いているようです。アメリカで認可された2基の原発は98%東芝の子会社ですし、ビル・ゲイツと契約した中国での原発建設には、かれが私財数千億円を投資した東芝や韓国の現代がからむのでしょう。
一方、開沼博の発言は『「フクシマ」論』の沿ったものですが、さらに挑戦的な言辞を吐きます。「原発を維持しようとする中央の側の「原子力ムラ」のカウンターパートナーである「原子力を欲してしまう地域」の現実を見もせずに、あんたらの持っている原発は間違っていると煽り立てる脱原発勢力が滑っていて、今に至るんだな、ということ理解しました」(P269)。
朝日新聞では、かつて大間で反対運動の先頭に立った漁師の言葉を伝えます。「どこかで電気はつくらないといけないでしょう。原発のお金がなければ村も困る。迷いなく脱原発を叫べる都会の人がうらやましい」と。私たちは、6月初旬、韓国の人たちと一緒にこの下北「核」半島を巡り、地域スタディ・ツアーを計画します。大間の鼻の先にある函館での集会を計画しているのですが、まず朝日や『ルポ 下北核半島ー原発と基地の人々』(鎌田慧共著 岩波書店)に書かれた現実をしっかりとこの目で見て、受けとめ、さらに反原発の運動を進めたいと思います。
福井のNさんからメールをいただきました(崔)。
返信削除科学や技術を科学論や技術論で考えたことのある人にとっては
当然なのではないかな?と思うのですが、科学や技術はあくまでも道具であって、人間が使ってはじめて現実化されると思います。
でも、そんなことを、皆さん忘れているんじゃないでしょうか?
人間から独立して、科学、技術があるわけではない。
科学的・技術的に純粋に考察すると自明であっても、
人間=人間社会を抜きに歴史は動かないと思うのですが・・・
現在の社会を握っているのは資本家、何もしなければ資本の論理で歴史は動く。
決して、科学・技術的な「自明の論理」どおりにはならない。
「自明の論理」を説いているだけでは、歴史は変わらない。
改革者が積極的に変革運動をすることで、歴史は資本の運動通りにはなっていかない。
科学・技術的な「自明の論理」は、結論ではなく、始まりではないでしょうか?
現実と「自明の論理」論理の矛盾に気づくことから、人間と人間社会を掘り下げるという作業を、皆さん、忘れているのではないかと思います。
しかし、反原発運動に携わったきた原子力資料室などの科学者の間では純粋科学論だけでいいのかといった考えはあると思います。
その辺も、崔さんのような運動家の方が、科学者の方たちと議論をしていければ、掘り下げた議論ができていくのではないかと期待します。