ー(崔)教会という組織に関してなんですが、カトリックは特に原発に関してはものを言いませんよね。これはどのように考えていらっしゃいますか。
(本田)これはカトリックの体質じゃないですか。つまり一番の正義に反するようなことがら、或いは社会構造を揺るがしてしまうような文句のつけ方というのは、カトリックの体質にはそぐわない、なじまない、カトリックという体制があってそれをいかに無難にころがしていくか、これが昔からのやり方ですね。だから愛の教えにしてもそうだし、敵を愛しなさいという聖書にはそんなこと書いていないかかわらず、でも敵を愛しないさいということで妥協をさせていくということですね。(愛敵なんかないですよねー崔) そういうようなこととか、人を裁いていはならないとかについても教会の体質からとにかく文句は言わない方がいいんだよ、天国があるから、そこでみんな清算されるからね、そういうのがカトリックの基本的な体質でしょう。
だから原発がそういうような問題を含んでいても、或いは基地の問題も同じですね、一部のはねっかえりの「正義と平和」は一所懸命やリますよ、だけど体制としては、司教団を含めて、変り者の司教は別にして、基地の問題に触れない、原発の問題に触れないですね。触れるとしても、核の平和利用という美しいところに行くわけでしょう。そしてあの、環境とかいうことになるとわっと言い出す、ということですね。環境というのは非常に漠然としていますよね。美しいイメージで捉えているわけです。だからカトリックがそういうことについてあまり積極的でないというのは私にとっては当然です。(わかりますよね、今までのことでねー崔)
だから宗教としての教会によってひとは救われるのではない、それは私の確信ですからね。ひとは教会で救われるのではない、福音を実践するかしないか、そこが境目ですね。教会のメンバーであっても教会の外の人であろうと福音を生きている、ということで解放されていくいんです。イエスが言ってる意味での永遠の生命(いのち)というかね、それを自分のものにできるのだということですね。だから教会とか信者とか、というのはまったく私の視野の外ですね。
ー(崔)そうしますとね、基本的には私もまったくそうだと思いますよ。そういうとそれはカトリックというよりも、プロテスタントも同じで、それは今までの教会とか聖書理解からすると、異端ですよね。
(本田)そう、異端です。だから自覚的な異端を選択するというかね。福音を生きるというのはそういうことだと思いますね。イエスも死ぬまでユダヤ教徒であったにもかかわらず、ユダヤ教から見たら、異端の道を選択したわけでしょう。それしか福音を選ぶということはできなかったわけでし、今でも同じだと思いますよ。
ー(崔)そうするとあれですか、人がひとらしく生きていく、教会で救われないということは、キリスト教という宗教では救われないということになりますね。(そういう意味ですねー本田) そうするとそこで神を信じるとか信じないとかということは救われるということと関係がないということですね。
(本田)信じるか信じないかではなくて、神から与えられた力を使うか使わないか、という行動とか、スタンス、姿勢ということですね。行動できないというひともいますよね。寝たっきりであっても、でもスタンスとしてはしっかりとその立場を選べるし、そういうことを含めて、信じるとか信じないではなくて、聖書に書かれているのは、(タレントのことですか、新約でいう本人のもっている可能性というー崔) 違いますね、タレントではなくてね、神の子の受肉という歴史的な、全人類の中に起こった出来事、その受肉の神秘によってすべての人に神のことしての命が既に与えられている、だからそれを活かして使うか、使わないか、ということですね。それに自覚的に、それはキリスト、ナザレのイエスさんがやってくれたやってくなかった、あんまり関係がない、ということです。(イエスを知らなくてもいいということですかー崔) 大事なのは、パウロの言葉の中にあるように、すべての人に既に神は語られているんだ、それはみんな心の中でわかっているはずだ、ということですね。
ー(崔)本田さんがそういう理解に達したのは釜ヶ崎に来てからですか。
(本田)そう、釜ヶ崎にきてからですね。(そうすると、それまでの信仰というのは何ですかー崔) それまでの信仰は、そうですね、あの、建前をひたすら、必死に守る、ね、だから信仰の喜びというものはほとんどなかったですね。
ー(崔)私は本当に共鳴しますが、先ほど言ったように、それは完全な異端ですよね。
(本田)はい、だからいつ除名されてもいいという覚悟はしています。それがないとねやっぱり曖昧になっちゃう、ということですね。ふたついつも思っているのは、いつどこで死んでもいい、ということと、い教会から異端審判を受けてもいいという、それを恐れない、(教会からの除名を恐れないと言うことですねー崔) はい、それに対して無理して教会に留まらせくれとか、あがきこともない、(教会からの除名という例は多いのですかー崔) 例えばね、修道会の神父なんかは会から除名されることは実は、教会からの除名なんです。時にフランシスコ会みたいな、古い、伝統のある修道会は、会の決定が教会裁判の第一次法廷なんです。教会裁判と同じでね。会から除名されると、その時点で教職停止になります。居場所がないんですね。ただどっかの司教さんがじゃあ、うちにいらっしゃい、うちの教区の司祭として働いてくださいと言われたら、祭司職の継続ということになりますね。そうでない場合は、もう停止なんです。
ー(崔)除名されてもどこかから声がかかればいいということですね。(そうそうそう本田) つまらないことを聞いて恐縮ですが、フランシスコ会から給料をもらっているといういことですか。
(本田)もらっていない、まったく。逆に上納金をだしています。(それはどういうことですか、誰でももらっているということではないんですかー崔) 少なくともフランシスコ会では、スタンスとして自分の食べるものは自分で稼ぎなさい、そして自分で食べる分を稼げないときは、物乞いをしてもよろしい、というかね。(物乞いは誰に対してですか、教会ですかー崔) いや、一般の人にです。
ー(崔)じゃああれですね、お坊さんと一緒ですね。
(本田)そうです、フランシスコの姿勢はそうです。基本的には働いて食べる、パウロが言うようにですね。
ー(崔)それは全部そうですか、それでは今までここに来る前はどのようになっていたんですか。
(本田)フランシスコ会の場合は、えっと、修道院の中の現物支給、食べ物ですね、給料というかたちではもらってません。ただ年金の関係があって、私が管区長をしていた6年間は、月10万円の給料ということで名簿上あげていました。会計上の処理としてね。だから10万円分の収入に対する年金の比率でもらってました。だから今、全部で国民年金を合わせて27,8年かけてはいるんですが、ひと月4万いくらですね。年金がね。(本田さん、何年生まれですかー崔) 17年です。(私より3年先輩ということですね)
ー(崔)私は本田さんの本は何冊も読みましたが、今はもうそこまではっきりとおっしゃるわけですね。
(本田)だからね、あういうことを書いてね、教会をばっちりと批判してきたにもかかわらず、16世法王の批判もしてるし三浦朱門、曽野綾子の批判もしてるしね、なんでまだ知らん顔してんのかなって思いますよ。影響力が小さいと、そんなもんかな。例えばどっかの大学の先生だとか、大学で教えている神父だったら、ちょっとやったらレオナルド(?)にしてもそれこそ教職停止処分というのがあるんでしょうが。それを幸いに逆に獅子身中の虫ということですね。
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