9月24日の午後3-5時の2時間、川崎駅西口で私たちの「脱原発かわさき市民」20名ほどで街頭署名活動を行いました。高校生や中学生という若い人の署名協力がめだちました。こんなことをして何になるのか、政治家は勝手にやってるじゃないかと言う人もいました。この点について考えてみました。
菅元首相は「ストレステストをクリアしない限り再稼動しない。」と閣議決定したのに、野田首相はNYで、日本の世界最高水準の技術をもって再稼働を始めることを明言し、外国の要請に応えて輸出継続することも約束しました。
山本太郎が河野太郎と話しあったということで、デモ会場でデモも署名も「倉庫にぶち込まれるだけ」で意味がないと言いましたが、私は意味はあると思います。しかし政権をもつ人たちに、或いは党に代弁してもらい原発廃止を訴えるということでいいのか、彼らは選ばれた以上、有権者の声を聴きながら政策を立てると言いながら、実際は自分たちの判断ですべて進めているのです。その事実は動かし難いものとして、直視せざるをえません。代議制民主主義制度の限界を強く感じます。
今日の朝日新聞のコラムのタイトルは、「うねる直接民主主義」「原発のあり方 私たちで考え、決めたい」とあります。「今の代議員制民主主義では原発問題は争点にならない」として「みんなで決めよう『原発』国民投票」という市民のシンポジュームがあったことを伝えています http://kokumintohyo.com/ 。またみんなの党が先月、原発国民投票法案を提出した事実も記しています。
みんなの党は原発国民投票法案をだし、民主党議員の一部は賛成だそうです。ついでに、公明党は「検討することは有用」、共産党は「慎重な検討が必要」、自民党は「国会の軽視につばがるとの懸念」を表明しているとのことです。
国民投票といういことになるとまたぞろ、外国人は排除すべしという意見がたくさん出そうです。そのことの議論で前に進めなくなり、国民投票の実施を絶対に実現させるという本題が疎かになることを恐れます。しかし今度の災害(地震、津波、原発事故)で死亡したり被害にあったのは何も日本国籍を持つ者だけではないという事実をしっかりとうけとめるならば、この「国民投票」は「日本国に居住する(人)民による意思表示のための投票と解釈すべきでしょう」。憲法にある「日本国民」が保障する人権については、日本に居住する外国人もまた保障されるべきという流れになってきています。
地方参政権のことを持ち出し、外国人がどっかの島の自治体を占拠したらどうなるのかという議論はこの場合、あてはまりません。そこに住む者はすべて被害に遭う可能性があるのですから。原発の是非に対しても意見を言う権利は、生存権の観点からも保障されるべきです。なお、国民投票に参加する資格として、みんなの党案は「選挙権を有する者」としているだけで、日本国籍者に限定していませんし、最高裁は外国人が選挙権をもつことを禁じていません。なお、住民投票の場合(川崎や多くの政令都市において)は、外国人の投票(永住権を持つ者だけに)認められているのです。
私は外国人の参政権の問題をここで議論しようというのではありません。まず国民の声が政治に直接的に反映される仕組みを求めるということを第一義的に実現させるべきだと考えています。しかし日本社会には外国人が既に多く住んでいるのです。外国人の労働力としての価値だけを重要視し、外国人は自らの生命にかかわる生存権についても政治的発言をする権利が当然あるということを認めず、外国人の意思を同じ住民として尊重しないということにならないように、この原発国民投票に関わる人は心してほしいものです。みなさんは、いかがお考えですか。
「原発国民投票」は日本で行えるのか、http://www.magazine9.jp/other/imai/
『「原発」国民投票』(今井一 集英社新書)という本も出ています。
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