OCHLOS(オクロス)は民衆を意味する古代ギリシャ語です。私は民衆の視点から地域社会のあり方を模索します。すべての住民が一緒になってよりよい地域社会を求めれば、平和で民衆が安心して生き延びていく環境になっていくのでしょうか。住民は国籍や民族、性の違い、障がいの有る無しが問われず、貧困と将来の社会生活に絶望しないで生きていけるでしょうか。形骸化した戦後の平和と民主主義、経済優先で壊された自然、差別・格差の拡大、原発体制はこれらの象徴に他なりません。私たちは住民が中心となって、それを憂いのない地域社会へと変革していきたいのです。そのことが各国の民衆の連帯と東アジアの平和に直結する道だと確信します。
2009年11月14日土曜日
「こんな教科書はいらない」横浜集会に参加してーその(1)
11月12日(木)、横浜で開催された「戦争賛美 偏った歴史観の こんな教科書はいらないー自由社採択&1採択地区撤回を求める 11.12市民の集いー」に参加しました。
会場は200名を超える人が集まりましたが、現役の教師はほとんどいなくて、元教師の比較的高齢の方が多いのに驚きました。 現場はいろいろと大変で参加できないのでしょうという司会の解説がありましたが、いろいろと大変という意味は、現場での教師の発言が困難になってきているというのと、雑用に追われて現場の教師は教科の内容にまで神経を使う余裕さえないという意味であると、私には聞こえました。この現実は教科書採択の背景にある重要なファクターでもあるでしょう。
私自身は、自由社の教科書の内容に驚いています。『日本人の歴史教科書』(自由社)の「はじめに」では、藤岡信勝が、「歴史の知恵に学ぶ」「「自虐史観」の歴史教科書」「日本の誇るべき歴史と伝統」「珠玉の名講義と標準的教科書」というタイトルを掲げて自論を展開しています。
日本の現状を憂い、「この日本を立て直すためには、何を拠り所にすればよいのか。多くの人々がこのことに思いを巡らし、ほぼ共通の結論に達しています。」(おい、本当か?)「日本人が自己を取り戻すには、モデルを外に求めるのではなく、日本のよき文化と伝統に立ち返り、長い歴史の知恵に学ぶしかないということです。」
そもそもこの前提が間違っていないか、むしろ人類の歴史として日本を相対化し、世界の英知を集めて日本を見つめなおすという視点が完全に欠如しています。歴史を「加害者」「被害者」という単純な二項対立的な視点でなく、複合的に捉え、なおかつ観念論に陥らずに悲惨な現実を直視するという捉え方が不可欠だと思います。
教科書問題はそれだけを捉えて問題にしてはいけないのではないでしょうか。私は、横浜で自由社の教科書がどのような過程を経て実現されたのか、その要因は何かを分析し、同じことを川崎や全国で展開させないようにするにはどうすればいいのか、考えたいと思い参加しました。
2年後には全横浜市の中学校で自由社の歴史教科書が採択されることはほぼ、確実だと思われます。 逆説的にいえば、これを反面教師としていかに偏ったものの見方かということを子供たちに考えてもらういい機会でもあると思うのですが、そのような授業ができるような教師側の体制になっているのでしょうか。自由社以外の今の教科書では、子供たちに植民地支配の問題点を十分に考えさせる授業(教育)ができていたのかという、根本的な現実批判から始めなければならないと、私は考えています。
横浜で自由社の教科書が採択された背景には、民主党の躍進、グローバリズムと新自由主義政策、多文化共生政策とナショナリズムの強調が一体化されていると私は見ます。研究者の協力を得て、この事態を読みほどき、実践に結実化させたいものです。
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