2020年10月14日水曜日

『個からの出発、ある在日の歩み』読みてー日本人キリスト者BM氏

筆者のBM氏は内村鑑三以来の歴史ある日本独自の無教会の信者で、私が大学生のときに、その無教会の集会で在日朝鮮人問題とは何か話す機会を与えて小冊子まで作成してくださり、もうかれこれ50年以上のお付き合いのある方である。社会問題には熱心で、これまで日本キリスト教協議会(NCC)の委員会などで活躍された人物である。筆者が拙著をお贈りしたところ、A4で1ページ半ほどの長文の感想文を送ってくださった。私には過分なお言葉と思われるが、先日名古屋でお会世話になった仏教徒の女性からも所望され、私のこれまでの歩みをよく知る方がどのように拙著を読まれたのかをご紹介したい。 先に筆者のブログのオクロスで紹介したお二人もそうだが、この方を含めて3人の拙著への感想文を寄せられた方はみなさん、キリスト者である。 参照、「拙著をお贈りした二人の大先輩からのご返事」(http://oklos-che.blogspot.com/2020/10/blog-post_69.html)

崔 勝久様  表記の貴著昨日読了いたしました。どのように展開するのか、次々と事実を摘出されて、終わってみると、ある一点に集中していることに気付きました。それは、人間として、更にはキリストに捉えられた者として、いわゆる神の似姿として、かけがえのない人格を持った個としての崔氏が、いかに生きるのか、生とは何か、懸命に探究し、人生を開拓していく歩みの行路ではないか、と受け止めたことです。たぐいまれな個性と、正論ながら組織の中ではなかなか受け入れられないもがきのなかで、はじかれ、かつ、にもかかわらず鋭い視線で前進する。それは、イザヤ・エレミアのごとき悲哀と、にもかかわらずそれは義の道なのであって、しかし、世間からははじかれる道なのです。悲哀をあえて担う貴兄の姿を私は敬服の眼で見、私の生き方と重ね合わせて主の御心と受け止めています。

私が在日者(なぜ貴兄はあえて「在日」といれるか、在日=在日朝鮮人であることは御著のなかでもいわれていますが、説明はあありません)の苦悩をリアルに突き付けられたのは、あの朴君を囲む会での、とある会場で朴氏は私たちに向かって「おめいら、日本人の馬鹿野郎」の一撃でした。多くは、それを聞き、去って行ったものもあるかと思いますが、私は単純な男なので食らいついていったのでした。そして 、今の自分があることに気づきます。 人生とは、日ごとの出会いをいかに取捨選択して生きるその点と線との連続にあり、それは私にとっては、神の経綸の賜物と受け止めています。 本著の具体的感想は、最後に記されている加藤・金氏に実に的確な指摘に同感するのみです。とくに「当然の法理」のい摘出は、兄の独壇場であって、私は、この言葉は、いかにも日本的あいまい性と無責任の典型であり、私にも突き付けられた自戒語であって、日本人には、正面から受け止め得ない日本語的用語であり、また自覚的に留意できない、しかし人間としては欠かすことのできない大事な真理性をもった反語的用語と言えましょう。(中略)

ともあれ、ごく最近まで、もう崔さんはこの世に?といわれ驚愕した自分を思い、タウン・ニュースの写真、メールに添付されたのをプリントしてややおなかの出た貴兄の、本を手に置いた壮健を見て、夢のような思いに満たされています。 ほんとにお互い生きていてよかった、ということです。 それにしても、貴兄のような性格(これはまさに親ゆずりですね)と2人3脚でこられた奥様に、我が妻と重ね合わせて感謝していますよ。

貴兄達の結婚式の写真(ハガキ刷り)を想起しつつ・・・。擱筆します。2020,10,10

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