2020年6月4日木曜日

安全・安心の教会でいいのか?ー小塩海平


私の友人である小塩海平さんが東京告白教会の修養会で発題した内容を私に送ってくれました。小塩さんのご意見に賛同します。ご本人の承諾を得て、私のブログに挙げさせていただきます。コロナだから礼拝を止め、それをネット配信するとか、信徒に家庭で礼拝を守るように式順などを記した手紙を送るなどのそれなりの配慮がなされたことは理解しますが、私はそもそもコロナウイルスを理由にして通常の礼拝を中止ないしは変更すること自体に反対です。コロナウイルスで信者が集まることができないのだからしかたがない、他の方法で礼拝をまもるなのだからいいという判断をされたのでしょう。もう過ぎたことですが、このことは改めて各教会で話し合われなければならない問題だと考えます。極端な意見だという人が多いと思いますが、今一度、ウイルスの問題と礼拝の持ち方を議論したいと思います。                             崔勝久


東京告白教会修養会発題

安全・安心の教会でいいのか?
2020531
小塩海平
 安倍政権になって、国家崩壊の兆しが頓に感じられるようになってきた。今回の新型コロナウイルス禍により、とくに政治の腐敗、教育や医療の崩壊、経済の破綻、社会保障の不備などが顕在化し、さらに格差社会の弊害が様々な形で姿を現しつつある。しかも、この緊急事態の中で、安倍政権は検察庁法改定案や国民投票改正法など、国家の仕組みを換骨奪胎しようとする法改正を虎視眈々と目論んでいる。私たちは、現政権によるショック・ドクトリンともいうべきこのようなやり方を注視し抵抗しなければならないことはもちろんである。ただ、教会は、他人事のように、政治批判ばかりしていてよいのだろうか。むしろ、今回明らかになった教会に内在するさまざまな問題こそ、悔い改めをもって、検討しなければならないのではないだろうか。

 私にとって、多くの教会が政府の自粛要請に前後して礼拝を中止したり、あるいはオンライン礼拝に切り替えたりしたことは衝撃であった。もちろん政府の要請に従ったのではなく、自らの決断でそのような選択をしたというのが事実であろう。しかし、いずれにせよ、自粛という形で礼拝を取りやめたのは、ナチスによる迫害に屈したとか、政府による神社参拝強要に屈したというような外圧に対する敗北ではなく、いわゆる忖度という形を取った妥協ではなかったかと私は考えている。政府に対する忖度ではなかったではないにせよ、教会員に対する忖度、あるいは近隣社会に対する忖度だったのではないだろうか。

 私が実に対照的だと思ったのは、自粛要請を受け入れずに営業を続けて、名前を公開された大阪のパチンコ店である。何ら法に触れたわけでもないのに、行政に目をつけられ、衆目に曝されるような処遇を受けたのは、まさにかつての「非国民」的な扱いを彷彿とさせるものであった。もちろん、教会は「非国民」扱いされることを恐れて自粛したのではないと反論しうるであろう。しかし、結局、教会は戦うことなく自壊したのではなかったか。私たちはこのことを神の前に存在をかけて検討しなければならないはずである。

 これまで私たちは、「教会と国家」という枠組みで物事を捉え、国家の命令と教会の権利が衝突するさいには、人に従うよりも神に従うべきことを確認すればよいと考えてきた。靖国問題に取り組む中で、信仰告白の事態、あるいは躓きの事態においては、旗幟鮮明に態度表明をすべきであることも確認されていた。しかし、実際には、衝突が起こらない前に、「自粛」という形で礼拝を取りやめてしまうということが起きている。それは、かつて戦時中、自らをごまかして国家と迎合し、今なお、その責任をあきらかにしようとしていない、時の流れに身を委ねる教会の姿勢に重なるものがあるのではないかと思われてならない。

 政府は新型インフルエンザ等対策特別措置法を一部改訂して新型コロナウイルスに適用できるようにしたが、結局は補償の責任を回避するような自粛要請という形で、法的に無責任な体制のまま、なし崩し的にものごとを進めてきた。対照的に、アメリカでは、先週になってトランプ大統領が、「宗教の自由」を考慮して、教会は礼拝を再開せよと命じたが、カリフォルニアを含む多くの州知事はいまだに礼拝を禁じている。連邦控訴裁判所も523日、教会が集会を開くこと禁じたカリフォルニア州の規制を支持する判決を出している。キリスト新聞に掲載された記事によると、この判決は、2週間前にサウスベイ・ユナイテッド・ペンテコステ派教会が提起した訴訟に関するもので、同教会は、礼拝の禁止は、宗教の自由を妨げる法律の制定を禁ずる合衆国憲法修正第1条に違反していると主張した。これに対して裁判所は「われわれが直面しているのは、伝染性が極めて強く、時には死に至る、現在のところ治療法がない病気である」としてカリフォルニア州の立場を支持したという。いずれにせよ、アメリカにおいては、礼拝を守る自由は、譲ることのできない権利として裁判になるのである。

 もし、日本でアメリカやヨーロッパのように礼拝の禁止が命じられたならば、教会は礼拝する権利を掲げて戦っただろうか。他の教会のことはいざ知らず、東京告白教会の場合、禁止命令が発出されても無視して礼拝を守り続け、場合によっては逮捕者が出るという事態になったかもしれない。それはそれで一つの証になったはずである。

 今回、教会は、喜んで自粛をしたのではないにせよ、少なくとも、自粛ムードに埋没してしまったことは確かである。新型コロナウイルスに屈服したとか、政府に協力したとか、あるいは高齢者や弱者への感染源にならないよう配慮したかというよりは、教会が法的存在としてのアイデンティティーを喪失してしまったのではないかと思われてならない。たとえば、525日をもって緊急事態宣言が解除されたのちも、カトリック教会は「状況は流動的で、感染流行には今後も何度かの波があるという専門家の指摘があります」という理由で、活動を停止しているし、日本キリスト教会の中にも、いましばらくは会堂における礼拝を見合わせるという教会がいくつもある。

 神の要請よりも、緊急事態宣言や、いわゆる専門家の意見が優先されるべきであろうか。高齢の会員が多いからという理由には、いかにも教会らしい配慮が感じられるが、しかし、コロナウイルスも神の創造物であり、みこころによってパンデミックが起こっているという事実から、教会は目を背けてはならない。私たちは、コロナウイルスで死ぬか、交通事故で死ぬか、あるいは老衰で死ぬか、予知することはできないが、いかなる形で死を迎えようとも、キリストにあって喜ばしく、平安のうちにあるのだということを語る説教者がいなければならないはずである。私たちが生かされているのは、そもそも神を礼拝するためなのであり、礼拝をやめてまで生きのびようとすることは、教会にとって、有害であり、自殺行為ですらあるといえよう。

 そもそも、教会に通うにあたっては、コロナウイルスに感染するリスクだけでなく、交通事故の危険もあり、熱中症になる恐れもあり、その他、さまざまな無数といってもよいリスクが存在する。私たち人間は極めて無力であり、神の庇護のもとにあるとはいえ、生きることそのものが危険である。もし、あらゆるリスクが取り除かれ、快適で何の不安もない状況で、安心して神礼拝に集中できるというのが私たちの目指す理想であるとするなら、「安全・安心」こそ、私たちにとって「金の仔牛」になっているということを意味している。邪推かもしれないが、このような姿勢は、教会が痛みを忘れさせる麻薬のように「安全・安心」を教会員に振りまいていることに起因しているのではないかと私には思われてならない。

 毎週、教会に行けば、何となく安心できるというのは、一種のお守りのようなものである。それゆえに、牧師たちは、やさしい安心させる言葉を語り、「今のままのあなたで救われるのだ」、などと説教する。自分自身が打ち砕かれたその御言葉を、その威力そのままに聴衆に語る説教者が、どれほど日本キリスト教会にいるのだろうか。礼拝を守り、説教を聞いて聖晩餐を守ることは、キリストの死と復活にあずかることであり、私たちにとって「安全・安心」とは真反対の、むしろ危機的な状況を作り出すものである。私たちは、終末に目を注ぐやどり人であり、自己否定あるいは自己改革こそ、いまを生きる私たちの姿勢であることを確認したい。

 もちろん、礼拝を続けることによって私たちが曝される感染の恐れや周囲からの白眼視、あるいは自らが感染源になりはしないかというリスクについては、無視できないものがある。しかし、教会にとって、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」という戒めは、リスクがあるから差し控えるというようなものではなく、教会の存在意義にかかわる絶対的な至上命令である。「聖とせよ」は、日常からの分離を意味するはずであり、家にいて日常生活の延長の中でインターネットを介して礼拝をするようなことで代用することはできないと私は考える。

 私がこれまで述べようとしてきたことは、教会のつとめとして、主の日の決められた時刻に、決められた場所おいて行われる公的な礼拝を中止すべきでないということである。ところで、教会がいかなる事情があろうとも公同の礼拝を死守すべきだという主張は、個々の教会員が、いかなる事情があろうとも礼拝に来なければならないということと同じではない。高齢者や病人、主日にも治療や介護に当たらなければならない医療従事者、その他、諸事情で教会に来られない人もいるであろう。

 私たちが主日の礼拝を守ることができるのも、公共交通機関の運行に携わる人がいるおかげであり、私たちは、主日礼拝に参加できない人たちを無碍に批難することは差し控えなければならない。しかし、個々人が教会に行けるか、行けないかを論ずるにしても、そもそも教会が主日に門戸を開いていないのでは、話にならない。日本キリスト教会憲法第14項には「教会および伝道所は、主の日ごとに礼拝を行い、神の主権を明らかにし、神の福音を宣べ伝え、聖礼典を行い、キリストにある交わりを厚くし、互いの信仰を堅くする」とあり、第41項には「礼拝は、主の日ごとに、時と所とを定め、秩序を正して行われる。」とある。これらの条項に、何らの留保もありえないことは、誰が読んでも明々白々である。私は、新型コロナウイルス禍に際しての公同礼拝の自粛は、明らかな憲法違反であると考えている。

 礼拝に集いたくても集えない兄弟姉妹たちとの交わりや奉仕に関しては、訪問聖餐、説教原稿や音声資料の共有、文通をはじめ、現在コロナ禍の中でさまざまな教会で行われているようなインターネットを利用したサーヴィスなどを考えてよいが、これ以上は触れないでおく。私が今日、考えたいと思っているのは、教会が公同礼拝をいかなる状況であっても死守するということを前提に、例えば、コロナウイルスのキャリアーの人などが礼拝に参加したいという希望を持っているとき、教会は拒否できるかという問題である。私は、礼拝に来た人に関しては、いかなる理由があっても、拒否できないと考える。例えば、現実には考えにくい極端な例であるが、国家によって礼拝への参加を制限されている人、例えば刑法上の容疑者や犯罪者として拘留あるいは拘置されていたり、伝染病予防法によって病院に隔離されたりしているような人が、脱獄あるいは脱走して礼拝に来たような場合でも、やはり受け入れるべきであると思う。ただし、礼拝の前後で、その違法行為の幇助をすべきかどうかは別問題である。

 感染の恐れがある病人の場合なら、育児中の人たちがしばしば別の部屋を利用することがあるように、感染のリスクを軽減するための配慮をしてもよいであろう。例えばコロナウイルスの感染者でPCR検査が陽性であるとか、高熱があるような人が、礼拝に出席したいという希望を持っている場合、マスクをして、手指消毒をし、換気をしてソーシャル・ディスタンスを確保するというような形で、礼拝を守ることになろう。反対する教会員がいるかもしれないが、この国ではPCR検査で陽性反応が出た場合、入院できずに自宅で待機することが多かった。つまり、家族であれば感染の危険にさらされても看病に当たるわけで、教会における礼拝の交わりも、それ以下と考えるべき理由はない。

 教会がこのような問題をこれまであまり考えてこなかったのは、例えば、ハンセン病患者の隔離政策や精神障害者の収容などについて自己の問題として考えることを、意識的あるいは無意識的に避けてきたからではないだろうか。日本キリスト教会の中に、野宿者やシングルマザー、留学生や不法滞在者などがほとんどいないのは、たまたまそのような人たちが教会に来なかったというのではなく、そういう人たちが近寄りがたい雰囲気があるからである。「今のままのあなたでいいのだ」というような説教が通用しない人たち、つまり、今のままでは生きていけない人たち、いまの社会に決して安心できないような人たちは、教会にとって想定外だし、逆に、そのような人たちにとって、教会は無用の長物としか言いようがない。

 私たちは、改めて、いかなる時にも公同の主日礼拝を行うことを前提にしつつ、あらゆる人に対して、門戸を開いているべきことを確認したいと思う。そして、私たちが意識的・無意識的に避けてきた人々のことを視野に入れる努力を始めなければならない。私たちは野宿者やハンセン病教会との交わりが与えられ、目を開かれる様々な体験を与えられてきたが、今後、野宿者はもちろんのこと、例えば、コロナウイルス肺炎を含む感染症キャリアー、同性愛者、触法精神障害者(殺人や強盗、放火、姦淫等、重大な触法行為を行った精神障害者の内、不起訴・起訴猶予、あるいは無罪、執行猶予となった人)、末期癌患者やエイズ感染者、不法滞在の外国人など、あらゆる人を礼拝に迎え入れる備えをしていることが大切である。

 もちろん、このような取り組みは、東京告白教会が単独ででもやるべき課題であるが、中会的な教会の交わり、また国際的な教会の交わりの中で、知恵を出し合い、人材を共有できるような体制を作ることを考えたい。少なくとも、そのための祈りを共有していくことを始めたい。

 東京は、525日に緊急事態宣言が解除されたが、私の教え子たちの中には、3月に大学院を卒業後、いまだに母国に帰れない留学生たちが何人もいる。とくにブラジルやペルー、フィリピンの状況は深刻である。また、私は、パプアのソロンという町で牧師をしている旧来の友人から、一昨日、ソロンの町だけでも、新型コロナウイルスの感染者が50人以上確認されたという話しを聞かされた。彼女は、それでも、ペンテコステの礼拝を喜ばしく行うための準備を、粛々と進めていた。さらに別の友人は、パプアの不十分な医療事情のために、時々しか透析ができず、病状が悪化した現在も、コロナ禍によって必要な輸血が妨げられているといっていた。

 私たちは、日本における安全・安心な生活が、国内における、いわゆる「負け組」と呼ばれるような人たちや、途上国の貧しい人々からの搾取によって成り立っていることを、なかなか知り得ないでいる。まず教会が、自分たちだけの「安全・安心」神話を打破していくことが必要である。そのためには、現状に甘んじないで声を上げる他の少数者と痛みを共有し、周囲の社会に埋没しない、異質な存在となることが必要である。
 いま、そのような痛みを伴った教会形成を行うことこそが、無牧の東京告白教会に求められている課題ではないかと私は考えている。

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